松木秀は1972年生まれ。札幌学院大学法学部卒業。1998年に「短歌人」に入会し、2001年第46回短歌人新人賞を受賞。第1歌集「5メートルほどの果てしなさ」は2006年に第50回現代歌人協会賞を受賞している。もともと短詩作家としての出発は川柳からであり、歌風の根本には川柳的な滑稽と皮肉が据えられている。
内側の輪の子を蹴った思い出のマイムマイムはイスラエルの曲
相聞歌まずは相手を探さなきゃ空気よ空気おまえが好きだ
かわいいなキティちゃんには口がない何も言えずに吊り下がる猫
輪廻など信じたくなし限りなく生まれ変わってたかが俺かよ
累々と死者が整列しています死んで整列させられる墓地
かなしきはスタートレック 三百年のちにもハゲは解決されず
平日の住宅地にて男ひとり散歩をするはそれだけで罪
その卓抜なユーモアのセンスには思わずぷっと吹き出してしまい、そしてしみじみと哀しい。時事ネタ絡みの歌も多いのだが、すぐれた批判精神は社会現象の表層だけではなく本質をも見抜いている。それゆえにそうそう賞味期限切れを起こさない。もとになっている事件はありながら、ある種の普遍を衝いているのである。これは松木ひとりの素質ばかりではない。第一歌集の収録歌をほとんどすべて選歌したという「短歌人」の元編集発行人・高瀬一誌の確かな読みの実力が冴え渡った結果でもある。
核発射ボタンをだれも見たことはないが誰しも赤色と思う
とりあえずいつでも壁は壊せても瓦礫を捨てる場所はもうない
二十代凶悪事件報道の容疑者の顔みなわれに似る
奥行きのある廊下など今は無く立てずに浮遊している、なにか
偶像の破壊のあとの空洞がたぶん僕らの偶像だろう
死に際に巨大化をする怪人のように企業の再編つづく
輪になってみんな仲良くせよただし円周率は約3とする
5首目は渡辺白泉の俳句「戦争が廊下の奥に立つてゐた」の本歌取りである。「立てずに浮遊している、なにか」とはすなわち戦争のことなのだ。現代の戦争はもはやすっくと立ちつくすその実体性すら持たない。6首目は平成の社会詠の白眉である。タリバーンの仏像破壊事件に題をとっていながら、その現象を現代の青年が抱えている不全感そのものへと普遍化させることに成功している。さらに「ぐうぞう」と「くうどう」の韻も踏んでいるという技ありの一首である。おしなべて社会詠・時事詠というのはジャーナリズムがすくっている論説をそのまま定型におさめてしまっているだけという傾向になりがちであるが、松木の場合どんな社会現象も「地方に住む孤独な若者」という自己像のフィルターで濾過して表現しようとする。そして現象が松木の精神内部で「翻訳」されることで、シニカルな笑いとしみじみとしたペーソスへとつながっていき、最終的には抒情性に立ち戻ってくる。そこがユニークな点である。
銀縁の眼鏡いっせいに吐き出されビルとは誰のパチンコ台か
目立つ場所より錆びてゆく歩道橋誰も渡らぬゆえ気付かれず
ベニザケの引きこもりなるヒメマスは苫小牧駅にて寿司となる
レーニンが詩歌の棚に並べられ新興住宅地の古本屋
LAWSONへSEIYUそして武富士へだんだん青くなり死ぬだろう
利用者の利便のために旭川の個人タクシーみな同じ色
ああ闇はここにしかないコンビニのペットボトルの棚の隙間に
松木は北海道登別市在住であるが、実は作品に大きく翳を落としているのは北海道の風土性かもしれない。それは寒冷な気候や開拓者精神、豊かな自然といったような凡庸なイメージのものではない。北海道という土地そのものが日本という都市の郊外に建設された、巨大なニュータウンだという視点だ。私も札幌在住なのでなんとなくわかるのだが、道外のニュータウンに通底する特徴が北海道の都市部にはすべて揃っており、さらにその中心たる都心部が存在しない。ただ郊外だけが郊外としてでんと置かれている。そういった風土をもつ社会に充満している不気味な均一性と閉塞感、そして奇妙な明るさが松木の歌には的確に描写されているのだ。内部の人間にしか見えない北海道のリアルな姿を確かに暴いてみせているのである。中心部のない郊外社会という巨大で不気味な闇のなかにいながら、鋭い皮肉と定型という武器を持って切り込んでいこうとする松木の姿勢は、ただの歌人ではなくそれこそ「現代歌人」の理想的なひとつの在り方になりえていると思う。