五島諭(ごとう・さとし)は1981年生まれ。早稲田短歌会出身で、現在は歌誌「pool」に所属している。
約束を果たせないまま物置の隅に眠っているシュノーケル
ラジカセの音量をMAXにしたことがない 秋風の最中に
どこか遠くで洗濯機が回っていて雲雀を見たことがない悲しさ
世界を創る努力を一時怠って風に乗るビニールを見ている
そのぐらい一瞬だよとささやいて蟻をつぶした 漆黒の蟻
傍らにピストルがある肖像のピストルだけが桃色の渦
ああ夜の帳はおりてゆきながら生まれるという災難に遭う
限界を突き破れない不全感。それが五島の短歌世界を貫いている大きな柱だろう。2首目のラジカセの歌は穂村弘のエッセイ「言葉の金利」にも引用された歌で、「ゼロ金利世代の代表歌」として扱われている。「音量をMA/Xにした/ことがない」という複雑な句またがりに、作者の屈折があらわれている。MAXにできることは知っているけれど、その必要性をずっと奪われてきた。そんな押し殺した環状が伝わってくる。伏せた暗いまなざしがある歌だ。そしてそのまなざしは、ときに世界を破壊していけるだけの強烈な反撃にもなる。
おじさんになる自由など思いつつ、鳥の風切羽拾いつつ、
女の子に守られて生きていきたいとときどき思うだけ、六畳間
歩きだせクラス写真の片隅の片隅ボーイ片隅ガール
中国で出世する自信もなくて気もなくてひぐらしが鳴いていて
みんなみんな想像以上に真面目だしピュアだけど台風の日の暗渠
歩道橋の上で西日を受けながら 自分yeah 自分yeah 自分yeah 自分yeah
夕映えは夕映えとして同世代相手に大勝ちのモノポリー
これらの歌は非常に挑戦的で、攻撃的だ。この攻撃性は自己を取り囲むあらゆるものへ向けられている。しかしそれが攻撃であることに気付けないタイプの人間も一定数存在いることを自覚したうえでの反転攻勢であるように思う。極端な自己否定と自己肯定のなかで揺れ続けて自壊していくひとりの人間の姿を見せ続けることが、五島にとっての孤独な闘いである。
海に来れば海の向こうに恋人がいるようにみな海をみている
地声から裏声に切り換えるときこんなにも間近な地平線
夕映えがそのつど僕の影になる(爆裂音の混じる音楽)
ある日ふとぼくの手にした親しみは煙草に咽喉を焼かれた雲雀
蟷螂の食べている蛾を蟷螂の視界へと飛び込ませた力
履歴書の学歴欄を埋めていく春の出来事ばかり重ねて
物干し竿長い長いと振りながら笑う すべてはいっときの恋
履歴書には春の出来事しか書かれない、という些細ながら実は世界を揺るがしかねない発見。日常の切れ目に指を差し入れて無理やり拡大させるような、レトリック巧みな歌も五島には多い。低体温的に日常を綴る防御の歌と、熱く世界を指弾する攻撃の歌。その両方においてうまくバランスをとり続けていられるのがこの歌人の強みだろう。五島の歌にもっとも心を撃ち抜かれるのは、青春への憎悪を抱えながら青春を過ごしている青少年たちではないかと思っている。