杉森多佳子は1962年生まれ。女子美術大学卒業。1990年に中部短歌会に入会し、春日井建に師事。春日井建没後は「未来」に移り、加藤治郎に師事している。2007年に第1歌集「忍冬(ハネーサックル)」を出版した。忍冬とはスイカズラのことであるという。
杉森の歌の出発点は春日井建にある。ライトヴァース興隆期にあえて春日井門下を志すというのはなかなか興味深い履歴といえる。
大空の澄み切る底へ死者の名のエンドロールが果てなく続く
地に降れば影をもつゆえてのひらの温みに触れて雪片は消ゆ
うら若き女性兵士が捕虜となる「虜」とは男がとらわれる文字
ふいに止む噴水の筒 銃口の闇を思えばまばたきできず
ガーゼ切り刻みたるごと散るさくらわがてのひらのまほろばに来よ
いつかしら この雨音を聴いたのは わたくしを消す降り方をする
誰からもふりむかれないさびしさが火に変わるときどんな目をする
「忍冬」にはイラク戦争などを扱った時事詠が多く含まれているのだが、社会に対して強く非難の声をあげているような印象はしごく薄い。自分が社会の中に埋没して消えていくことへの不安感が繰り返し表現されており、時事的な問題を扱うのもまたそんな不安感の一パターンのように感じられる。喪失感よりも自己消失感こそが杉森の意識の中で大きなテーマとなっていたのだろう。
一滴のしずくとなりてつばめ翔ぶ青の密度の深まる五月
少年が白球を追う空の果て 圏外という表示が点る
コクトーの阿片に溺れる人生を疼痛として受けとめる夜
数学の明快さもて師は語る助詞一文字の有無のことさえ
さびしさに溺れてゆけば楽なのに、なのに、足りない溺れる力
悲しみをこの夕空に放つなら紫陽花色に変わる日輪
「つばめ翔ぶ空」は師・春日井建の追悼の一連。解説で加藤治郎が指摘するように師からの本歌取りが多数盛り込まれており、悲痛さの中に技巧が隠された連作となっている。春日井没後は短歌をやめようとすら思ったそうであるが、あえて0から始めようと全く系統の違う「未来」に入ったという。
わたしたち似ているようで似てないね光と水を欲するけれど
朝日射す部屋に積まれしコミックに望む死に方見い出せもせず
転校生見送るように見送って芽吹きの春は少しけだるい
白百合の遺伝子をもつ夏雲のあの輝きをまとっていたい
両の手に抱えるためのあたたかさココアの匂う白いマグカップ
洋梨が暗号のように香りだすきみが辛いと語らなくても
杉森は30代前半から半ばにかけて夫の病気に添い遂げつづけたという。「子規の妹のように」という連作はまさにその日々を描いたものであり、そこを通り抜けた物語として、故郷富山への帰郷から水晶婚旅行へ到るまでが描かれた第3章があると加藤治郎は分析している。生活が落ち着き再び歌へと帰り始めたときに師の訃報ということになったのだろう。
自己消失に怯え続けた日々を清算して、消失したならまたゼロから築き上げればいいではないかという思いとともに歌集を作り上げたように感じられる。何かをなくしても、何かが消えていっても、どこかに希望に満ちた空気が残されているのが杉森の世界観の特徴であろう。忍冬というスイカズラの別名は、冬を通して花を落とさないことから付けられている。身動きがとれなくとも耐え忍び花を咲かせ続けよう。そういったポジティブさがこの歌人の根にはあるのだろう。