真鍋美恵子(まなべ・みえこ)は1906年生まれ、1994年没。東洋高等女学校卒業。1926年に「心の花」に入会し、印東昌綱に師事。1949年には「女人短歌会」発足に参加した。1954年、歌集「朱夏」で第1回新歌人会賞、1959年「玻璃」で第3回現代歌人協会賞を受賞。この時の同期は塚本邦雄である。
桃むく手美しければこの人も或はわれを裏切りゆかん
捕へたる蜘蛛をかまきりは食はんとす優位なるものの身の美しく
われより抜けゆきしものがぬくぬくと育ちをり小豚とも杏(もも)の木ともなりて
受身なるものの素直な態(さま)にして給油されゐる黄の車あり
みづからを嘲笑(わら)ひたければその笑ひ鏡店のどの鏡にもある
白きダリヤおもおもとして乳房(にゆうばう)のひかりをもてり山の畑に
うつくしき夜となるべし果実油の瓶におびただしき指紋つきゐて
真鍋の歌を読むにあたってはまず、彼女が発足に参加した「女人短歌会」についても知りたいところだ。葛原妙子や長沢美津らが中心となり、女性だけで構成された超結社の歌誌である。中城ふみ子が(当時としては)スキャンダラスなテーマを引っ提げて短歌界に現れたときに、女人短歌会のメンバーは擁護の論陣を張った。単なる女性歌人の集団ではなく、戦後の新しい女性の生き方を志向するグループであったといえる。実際上にあげたような歌には、ジェンダーに対する批評的視点が比喩のなかに込められている。
背の青く光る小蛇が這ひゆきしより岩肌のはげしき飢渇
洗濯機のなかにはげしく緋の布はめぐりをり深淵のごときまひるま
ま二つに氷塊切られゆくときに紫の炎となれる荒鋸
エレベーターのてらてらと光る扉あり結氷よりも深き静止に
朽ちし井戸に今も棲めるという鯉の雪ふる夜は炎(も)ゆらんその緋
八月のまひる音なき刻(とき)ありて瀑布のごとくかがやく階段
停止せるエスカレーターの階段が鉄のひほひとなる夜を恐る
ひわ色の絹をかぎりなくひきいだす奇術師のその蛭のやうな指
しかし「女人短歌」のなかでは真鍋は比較的珍しい作風の持ち主だったのかもしれない。『現代短歌の鑑賞事典』では、「妻として母として平穏な家庭生活を送った人だが、家族を詠んだ歌はほとんどない」「女性歌人たちが“人生のドラマ”を実感を込めて詠んだ時代にも、真鍋は一貫して私的な境遇を表立てない作風を通した」と評されている。真鍋はある種のモダニストであり、女性が一人の人間として感情をあらわにすることが新しい女性像のあり方という考えには与しなかったのだろう。それよりも優れたメタファーのセンスによってイメージの世界を構築し、社会に隠された闇を描きだすという方向性をとった。
そのかげに犠牲者あるはわが知れる祝宴に白き海老の肉切る
強き酢を硝子の壜に入れたれば硝子は罌粟の茎より青し
蛇の頭に似る瓦斯コック並びゐる厨房の明るき深夜を見たり
弾力をもてる革椅子のうしろには非常扉ある室に待ちをり
血のにじみきたれるものをみな入れつ冷蔵庫のかがやく扉(と)の面(おもて)あり
古き地図はがしし壁の空白が急速にひろがりゆく室にゐる
静けさは森林よりも深くして硝子倉庫に硝子満ちゐる
私的な境遇を詠もうとしなかった真鍋であるが、主婦として長い時間を過ごしただろう「厨房」を描いた歌は多い。「食」という生に直結する事象を扱う空間として関心があったようだ。それも含め、「部屋」という空間の仕切りに強い興味を抱いていたのが真鍋の特徴といえる。壁や扉によって部屋と部屋とを分別すること。それはたとえば男と女、たとえば親と子供、たとえば主人と使用人とを分け隔てる何かしらの機能を持つ。きっとそこに世界を構築する闇の部分を暴きだす鍵があると見つめ続けていたのだろう。
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