西王燦(にしおう・さん)は1950年生まれ。立命館大学文学部日本文学科卒業。1982年「バードランドの子守歌」で第28回角川短歌賞次席。1976年より「短歌人」所属。歌集は1982年に「バードランドの子守歌」を出版している。その収録歌を並べてみよう。
オートバイ横転したり いつ過ぎしわが若狭路に散る桜なし
ひざまづく水辺の膝におよびたり鳥墜ち水の弧のきはまりは
ひと抱きてひひらぎの香をおぼゆそも遠き日のてのひらの疵
遠野には夕立すらしひさかたのひかりしぼりて声ぞかなかな
鳥のゆくかなた櫟のくらやみをわがわづかなる哀しみとせむ
口中の鯨やしろき霧雨にヴィオラ・ダ・ガンバの内部湿りぬ
さて、これらの歌にある共通点はおわかりだろうか。そう、全部字数が同じなのである。「バードランドの子守歌」という歌集は収録されている歌すべてが27字で統一されているのだ。アンソロジーに収められた作品と本人がウェブで公開している作品(第一歌集の抄録もある)を知っているのみで実際の歌集は手にとったことがないのだが、すべての歌の末尾がぴっしりと揃っているさまはさぞかし壮観だろうと思う。ブラウザ上で見てもなかなか凄まじいものがあるのだが、こういう仕掛けはやはり紙で体感してみたい。
如月や老クロポトキンの葬送に遅れほとほとうさぎをくらふ
ビイルマン・スピン映せるテレヴィの水上の痕だらけの霞網
雪を揉む噴水マイルス・ディビスに老醜滲みたるゆふまぐれ
眼窩こそ水溢れきて滲みたれ月にフラメン・ディアリスの髪
アルフレツド・デラーの声はさしのぼり犯されむとする雲雀
西王の作品にはおびただしい数の固有名詞が登場する。登場する人名はいずれもかなりスノッブなものであり、作者の趣味の幅の広さが伺える。ここに登場する固有名詞はおそらく「分かる奴はついてこいよ」くらいの思いで歌われている。あらゆるジャンルの芸術に通じ「知」を基盤とした共同体に憧れてやまない、そんな青年像が浮かび上がってくる。
西王の短歌の背景にあるのは全共闘運動であり、前衛短歌である。革命を夢見て敗れていった、そんな青年の物語だ。西王にとっての全共闘は社会革命というよりも思想体系であり、ひとつの「知」のあり方だったのだろう。
核ジャック未遂、午後二時獣園に戻る孔雀のひらきたる見に
宿酔の朝のシャンソン「あいつらが世界を壊す」秋終りたり
兄いまだ独身、原子物理学者のつゆくさのむらさきのシャツ
三十三歳、モーツァルトの享年を越ゆ一瞬のためらひののち
兎の童話読みきかせつつ革命の語彙すらかつて眩しかりにき
革命の夢が潰え、確かに若さを喪失していく自分との葛藤。外国の音楽や映画が多数登場する世界はおしゃれであるが、生活感はない。これらの歌で表現されているのは革命思想が潰れていったのと同時に、自らの住む「知」の世界もまた崩壊していったという認識だろう。その先は、空虚ぎりぎりの言語遊戯に浸るばかり。「敗れたインテリ」の苦さがよく描かれている。
現在の西王は郷里の福井で林業に携わっているらしい。そのため近作にはおおらかな自然詠も目立つ。しかし相変わらず固有名詞の詠み込みは多く、「森の思想家」たらんとする意固地な姿勢が見えてなんとも不思議なペーソスに満ちている。