中津昌子は1955年生まれ。東京女子大学卒業。1987年に「かりん」に入会し馬場あき子に師事。1991年に「風を残せり」で第6回短歌現代新人賞を受賞している。「風を残せり」「遊園」「夏は終はつた」「芝の雨」の4冊の歌集がある。
第1歌集「風を残せり」は1993年刊行。日常の一風景をやわらかにすくい上げた歌が目立つ。
冷蔵庫の奥の湿ったアーモンドしんねり噛みて深夜に近し
大型ゴミのタンス抱えて夜の道をきみと何だか楽しく歩む
たったいま人が笑っていた席に冬の陽光だけが落ちてる
包帯の蝶々結びをふうわりとなびかせ少女の手首が過(よ)ぎる
音のない午後に開きし画集には鼻がみどりに塗られていたり
ぜったいに人に言わない約束ののちにとろりとはじまるはなし
自転車のうしろに乗せし子がくくと笑えり虹をくぐりゆくとき
口語まじりのやわらかな歌の中に、独特の世界観がある。栗木京子は「欠落へ怖れとの親和性」と評しているが、欠落に対する不安が歌の基本を支えているのである。そして、その先に見ているのはとてつもなく大きな何かへの畏怖なのかもしれない。
2009年に出た最新歌集「芝の雨」を読むと、どうやら一時期アメリカに住んでいたらしい。オバマ大統領の誕生は現地で迎えたそうである。このアメリカという視座は中津の歌に大きな影響を与えたようだ。
ゆふぐれはピンクとなれるビルの壁 セルフォンを開き人は立ちたり
少なくともナガサキは必要なかつたといふ声を聞く 芝生が光る
雨に濡れたプラットフォームに立つ人ら アメリカの黒き群像として
紙コップに小銭をくれと言ふ人を見ぬやうに行くユニオン・ステーション
治療費がなければ痛む歯は抜いてしまふ歯茎のくらいむらさき
力すべて眉間に集め語りをり 持てる一人のヒラリー・クリントン
いつか撃つ誰かが撃つといふなればつややかな壺、次期大統領は
異邦人としてアメリカ社会に暮らす歌であるが、アメリカという得体の知れない巨大な塊を見つめていような歌いぶりである。社会詠としての鋭い切っ先があるわけではない。むしろじわじわと効いてくる鈍器のようなインパクトをもって世界の真実を突いてくる。これは世界そのものを「得体の知れないもの」として見つめ続けているためであろう。
しかしその世界に対する感覚は、決してネガティブなものばかりではない。むしろ「得体の知れない」大きなものに対する愛情と澄んだ詩情こそが本来の中津の持ち味だと思う。
聖水は象の鼻より流れ落ちしかうしてわれはひとを忘れず
竜眼のあまき実を呑む喉(のみど)にて思ふをんなを愛さざるひと
葡萄の葉食べて化身をするものは少年ならむくびすぢしろく
イグアナの見てゐる時間永ければわれの視線とからまり合はず
スケボーの少年がすつと抜けてゆく腕を組まないわれらの間
水鳥も湖面にくろきものとなり夜だけがいつも変はらずやさしい
春雷の重くとどろく朝明けて何度でも空は新しくなる
だからもういいのだきつと なだらかにつづく牧場を白くする雪
美しい橋に何本も出会つたと思ふ 旅の出口に立ちて
世界を構成するものは美しいものばかりではない。醜いものもあれば、よくわからないものもある。不安はたくさんある。しかし中津はつねにどこかが欠落している世界を愛し、穏やかに静かに描き出す。その結果こうした美しい歌として結実する。不思議なものを不思議なまま愛そうとする。それは欠落に対する態度の変化であり、人間としての成熟なのであろう。