トナカイ語研究日誌

歌人山田航のブログです。公式サイトはこちら。https://yamadawataru.jimdo.com/

穂村弘百首鑑賞・90

  笑い声まだ響いてる ミル・マスカラスの覆面(マスク)が剥された夜

 第2歌集「ドライドライアイス」から。ミル・マスカラスというのはメキシコの著名な覆面レスラーである。「ドライドライアイス」が発刊された頃から活動しているが、なんと今も現役らしい。「隠されたものを暴いて笑う」というのは穂村弘の歌に潜んでいる本質のひとつであろう。神父や警察官を茶化して笑う歌が多いのも、気取った皮相な権威を剥ぎ取ろうという反骨精神のあらわれである。
 この響いている「笑い声」は、何となく女性の笑い声のような気がする。恋人と二人プロレスを観戦していて、ミル・マスカラスの覆面が剥された(実際にはそんな試合はなかったと思われる)。そのことになぜかスイッチが入ってしまったように笑い続ける彼女。隠されたものが暴かれたことが最高に痛快だったのだ。そんな彼女の姿は底抜けの無邪気さのあらわれであり、また無自覚な悪意のあらわれでもあるのだろう。社会に存在するルールや各個人の幸不幸といった問題を軽くかっ飛ばして、ただ「暴かれた」ことにのみ快感を求めようとする姿勢。それはささやかながらとても甘美なアンモラルの一種なのだ。
 思うにこの歌の最大のポイントは「まだ響いてる」の「まだ」の二文字である。今に至るまでずっと続いているというニュアンスの言葉だが、二人の気持ちのすれ違いをそれとなく表現している。作中主体もまたミル・マスカラスの覆面が剥された瞬間は愉快な気分になったかもしれないが、そこまで長くは笑い続けられずとっくに醒めている。しかし彼女だけは笑い続ける。その瞬間に恋人に対して「他者である」という意識にふっと包まれるのだろう。「笑う」という究極のポジティブな行為を転倒させて、一瞬の孤独感をうまく切り取って見せた歌である。