トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその71・菊池裕

 菊池裕は1960年生まれ。高校時代から寺山修司天井桟敷に在籍し、桐朋学園大学芸術学部で演劇を学んだ。1987年中部短歌に入会し、春日井建に師事。1992年より「開放区」にも参加。2005年に、第1歌集「アンダーグラウンド」で第13回ながらみ書房出版賞を受けている。
 若いころから演劇に携わり、現在はテレビプロデューサーとして働いている菊池の歌は、きわめて映像的な手法で「東京」を描いたものである。

  輪郭の溶けゆく貌(かお)に驚いて首都の末梢神経が痒い

  防犯用監視カメラの結露にもあなたが映り滴り落ちぬ

  誰もいないエレベーターにひといきれだけが上昇して下降せり

  タブロイド版の誤植を踏む靴がデジタルノイズの雨に撃たれて

  距離感がよくつかめない形而下の人の生き死にさえ過去映像(アーカイブス)

  ドライヤーONにしたまま浴槽に沈め無人の水ふるえたり

  生活感などなくていい真夜中の<ドンキホーテ>で護謨の樹を買う

 メディア化、映像化してゆく世界。都市風景の隙間にあらわれる異様な一瞬を見事に切り取ってみせている。これらの歌から浮かび上がってくる世界は、高層ビルに囲まれ最先端技術が浸透しているものの、常に真夜中のようにモノクロで人間の気配がしない。この「無人性」が菊池の見つめている都市社会の本質なのだろう。すなわち人間関係の薄さ、バーチャリティだ。サイバーなイメージで綴られる世界がディストピアのようである。

  カードキー差し込む間際かならずや疼く脳髄の立暗(たちくらみ)

  携帯はすべての欲に繋がると言った傍ら接続不能

  ホームページのアクセス件数ほどの数ひどく淋しい人と別れた

  青年を破壊してゆくシステムの波打際で詩と生き別れ

  子をなさぬつがいの棲まう新築のマンション林立する中空に

  初恋のひとの老けゆく黄昏に返信メールぞくぞくとくる

  車中では俯きながら親指をぴくぴくさせて交信をせり

 ネットワークや高度技術を背景にした世界観は幻想性をはらみ、SF的な要素も持つ。現実の社会はもちろんここまで異常なものではない。しかしそこを徹底的にデフォルメして肥大化させるところに単なる社会詠に留まらない娯楽性がある。世界そのものを異化して仮想的空間を作り上げようとする手つきは、確かに寺山修司と春日井建の手法を混交したものといえそうだ。寺山が現代にまだ生きていたら、ネットワーク社会を題材としなかったことはなかっただろう。

  それならばこの世の慈悲を除菌せよ先ずははそばの母の眸を

  死体処理手当てのギャラは五千円なのか遺体は静物なのか

  東京は狭くて深いスノビズムまことに遺憾ながら淫する

  睾丸に似たる蘭の実脆ければスプーンで神を掬い難きか

  官能が洗脳モードに切り換わる場面に麻酔が切れて疼きぬ

  まったけく無風であれば風鈴は神の不在を鳴らしめ給え

  近代の遺産は廃墟であるからにその侵蝕の陰影をこそ

  荒涼と聳ゆるビルの断崖にあなたが咲いて死を孕みおり

 執拗に都市風景のディストピア性を描く背景には「神」という存在への希求があるのだろう。人間が触れ得ない領域としての「神」の不在を思い知り、その一方で過剰なまでの情報化により個々の人間がまるで己が「神」であるかのような視点を得るようになってしまったことを嘆く。ここで重要なのは、自分自身は「神」に近づこうとしない点だ。「神」はつねに時代を俯瞰しようとする。菊池はそうではなく、あくまで日常を生きる生活者として都市社会の断片だけをしっかりと捉え続け、叫びとして歌の中に封じ込めようとする。既存の宗教的意味を超えた都市住人にとっての「神」。菊池の歌は、単純に「ビビッドな都市詠」とは括れない要素を多数含んでいるのである。