トナカイ語研究日誌

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穂村弘百首鑑賞・69

  尻にあるネジさえ巻けばシンバルを失くした猿も掌を打ち鳴らす

 第2歌集「ドライドライアイス」から。ネジ巻き式でシンバルを叩く猿のおもちゃ。シンバルを失くしてしまっても、ネジさえ巻けば空っぽの手を叩き続け、鳴るはずのない音を鳴らしているつもりでいるかのように見える。そのときの猿の顔は、とても自慢気なのかもしれない。これは条件反射のようにルーティンワークをこなし続け、何かの異変が起こっても気づいていないかのように同じことを繰り返す、そんなタイプの人間を揶揄しているのだろう。そしてそれはある種の愚直さの否定でもある。「ドライドライアイス」には「隠されたものを暴く」というモチーフがしばしば登場するが、この歌も同様で、ひとりの青年が見つめる社会人の姿の一典型を醜悪に暴いてみせたのだろう。

  首を振れドラムを叩け背の中の電池を早く使いきれ猿  中野昭子

 似たような猿のおもちゃを扱った歌でこのようなものがある。中野昭子は穂村弘と同期の角川短歌賞次席ホルダーなので、穂村がこの歌を知っていたのはほぼ間違いないと思う。しかしこの時点で20代だった穂村と40代だった中野では捉え方がやはり異なるようである。無意味と化したことをルーティンワークとして実行し続ける人間を晒して暴きたてようとする穂村、とにかくひたすら動き続けてぱったりと倒れてしまうよう祈る中野。この2つの歌がほぼ同時代に生まれた背景には、バブル期の過剰労働社会の問題があったのだろう。