塘健は1951年生まれ。塘は「つつみ」と読む。別府大学卒業。「玲瓏」に所属し、塚本邦雄に師事。1982年、「一期不会」で第28回角川短歌賞を受賞している。師譲りの主知的かつ耽美的な作風が特徴である。「火冠」「出藍」の二つの歌集がある。
われと言ふわれに最も遠き身に遺言のごと蒼き空ある
雲に入り再びいづる一瞬を陽よ研がれつつわれにまむかへ
言葉こそ男の火冠紺青の空にかかげむ時至るべし
青空に葡萄の種を吐きゐしがすべて神話とならざるあはれ
沈黙はむしろ饒舌わが通夜の客ねがはくは私闘におよべ
「白鯨」とコンピューターに入力すただちに生死不明と応ふ
石榴一果裂けば淵なす蒼穹にきらめけれくれなゐの楽音
端正な文語定型でくっきりと描かれた耽美的な世界観。どことなく漢詩的な趣もあり、音楽的な短歌であるという印象を受ける。「言葉こそ男の火冠」という、言葉にかける思いや詩人としての矜持がたくましく、強い男の歌として胸に響いてくる。
硝子屑さらに微塵に砕きつつこの遊星の末をわらへり
空の秋極まりしかばみみうらを星の触れ合ふ音ぞ過ぎける
辻辻に蛍惑星の札貼りてすなはち待たむ夏の終りを
真夜にして胸つき上ぐるもののあり永久に雪ふる星こそ故郷
わが領す星座その名も石榴座あまた子を残すべき娘に
青空に星涵ち胸に愁ひ満ちて来るべきわが終焉の日に
二十九枚の銀貨は火の星をあがなふによし夫と換えむか
ほかに目立つのが、星の歌の多さである。星というモチーフを扱うときの塘の詠みぶりは、SF的に見えるいっぽうで土着的にも見えるという不思議な描き方がなされている。塘にとって星とは「故郷」であり、「終焉」の地であり、自らの遺伝子を残していく地である。自分に限らず、すべての生命は星に生まれ星に還ってゆく。そういう思考が見受けられる。そしてそういう思想を足下の「土」ではなく、「星」というスケールの大きな尺度で見ることは、おそらくは塘自身の人生観とも関係があるのだろう。
夏至過ぎてなほ存ふる父よその影こそ空を流れゆく水
青空へひとすぢ奔り去る水のそのかなしみを歌といふべし
農夫すはだかなどと気負へば片雲をまとひて旅に死ねと吾が妻
旅に死す証と思へ胸郭にあふれたり初夏の光は
夕焼けはにじむがごとしひとすぢの血脈をこの地にて断たむか
塘は長野県出身だが、九州の大学を出て佐賀県にて農業を営んでいる。何があったかはわからないが、何かしらの理由で出奔があり、「還るべき故国持たざる」人間となったようである。そんな流浪人が農業という何よりも土地と密接に結びついた生業を得たことはなんとも不思議である。もしかすると出奔の理由には塘の歌に濃い影を落とす「父」の存在が深く関わっているのかもしれないが、それを知るすべはない。ただ言えることは、塘が土地を得て土着の民となってもなお自らを「旅人」と規定し、「旅に死す」ことを予感しているということである。故郷を喪失した男に、新たなる故郷を創出することなどできないということなのだろう。どこにいても、定住を果たしたとしても異人感覚をずっと抱いたまま生きていくしかないのだ。その異人感覚が、「土」ではなく「星」へのシンパシーを生み出しているのだろう。自分の足が踏みしめているものにリアリティを感じることができず、もっと広い単位へと想像をめぐらすことで自らの生に対してリアリティを持とうとしている。もしかすると、農業という職を選ばなければここまで深く土地と自己との関係に思いを馳せることはなかったかもしれない。異郷感覚にあふれた歌いぶりであるが、その背後にはやはり個人の人生というものがべったりと貼りついているようである。