トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその76・大松達知

 大松達知は1970年生まれ。上智大学国語学部英語学科卒業。「コスモス」「桟橋」所属。高校時代に作歌を始め、これまでに「フリカティブ」「スクールナイト」「アスタリスク」の3歌集を出している。本業は私立高校の英語教師。蛇足ながら、千葉ロッテファンだそうである。
 奥村晃作は高校時代の先生だそうで、その影響を受けてか「ただごと歌」的な歌を多数つくっている。しかし奥村と違うところは意図的にユーモアをきかせる都会的な洒脱さを持ち合わせていることだろう。

  a pen が the pen になる瞬間に愛が生まれる さういふことさ

  バレーボール知らぬバレー部顧問われすなはち象徴天皇のさびしさ

  窓掃除業者がわれに放水すもちろん窓を隔ててゐるが

  みづからは触れ合はすなきテディベアの両手の間(あひ)の一生(ひとよ)の虚空
  〈いい山田〉〈わるい山田〉と呼びわける二組・五組のふたりの山田

  なにゆゑかひとりで池を五周する人あり算数の入試問題に

  誤植あり。中野駅徒歩十二年。それでいいかもしれないけれど

  <不知火>の通称デコポン こうやつてみんな子供のままの日本

 噴出してしまうようなユーモアのある歌である。奥村晃作のもっとも良質な部分を引き継いでいるといえるかもしれない。しかし奥村のような強烈な自我は薄く、つねに一歩引いた視点から社会を眺めているようなところがある。
 教師である大松には学校生活を描いた歌が多い。その学校生活の描き方もユニークだ。

  しらす干しの中に大きなしらすゐて思ひ出す巨躯の生徒のひとり

  のちの世に手触れてもどりくるごとくターンせりプールの日陰のあたり

  ポスターに〈本土国立大進学〉とあり沖縄一九九七年

  アメリカに移り住むといふ選択肢まだあり青春の余白にも似て

  成績を上げます。がんばります。と書く賀状さびしも名を見ればなほ

  入試前日机のいたづら書きを消す「歓迎」も「がんばれ受験生」も消す

  教室でケイタイが鳴つてゐるけれど開戦を告げる合図にあらず

  とてもとてもうまくゆきたる一コマの授業ののちも拍手はあらず

  一生を終へたことなきわたくしが英語は一生役立つと説く

  みづからの息子に〈絵(くわい)〉と名づけたる男(ひと)とこれから面談をする

 教員の生活がユーモアたっぷりに描かれており面白い。特に好きなのは机のいたずら書きを消す歌である。決して目に触れずに終わる受験生へのメッセージ。その向こうには青春の真っ只中に生きる生徒たちの元気な姿が見える。そこに感じ入りながらあっけなく消してしまうところに、青春への諦念を感じるのである。青春ただなかの生徒たちに囲まれて暮らす生活を相対化しながら、自分自身の青春に清算をしようとしている。乾いた諦めのような気持ちが職場詠に満ちている。青春を引きずったまま生きながら真の青春を見つめるとき、「青春の余白」という言葉は不思議なリアリティをもって迫ってくる。

  かへりみちひとりラーメン食ふことをたのしみとして君とわかれき
  ヘッドフォンして英会話聴く妻がときをり神託のごとく声だす

  妻とわれ入り組むやうに生きてゐてされどそれぞれ爪切りがある

  三十は〈配偶者のみ〉三十一は〈配偶者・子供一人〉が試算のベース

  あなたには〈くつしたなどの干し方に〉愛が足らぬと妻はときに言ふ

  車中にて親指メールする人よ人を思ふとき人はうつくし

  手をつなぐためにたがひに半歩ほど離れたりけりけふの夫婦は

  人類がすこしづつ入れ替はるごとくつしたなどが入れ替はりゆく
 恋の歌、妻の歌なども多いのだが、「人間は決して交わることができない」という思想に覆われているような印象を受ける。最も近くにいる「他者」である妻でさえ〈私〉が侵入できない領域があり、それは〈私〉も同様なのだ。世界はつねに他者で満ちていて、自分では視認することさえできない領域がその大半なのだという諦念が感じられる。つまり、大松は「個」をうたう歌人なのだ。パブリックとプライベートの境界を日々見つめながら、社会に潜むあらゆるものの「個」の領域を感じ取ろうとする。そんな人間にとって学校は、未熟な「個」であふれたとても刺激的な場所だろう。そして洗練されたレトリックでもって世界を表現することで、はじめて他者の領域にわずかながら手触れることができるような感覚が生まれてくるのかもしれない。