棚木恒寿は1974年生まれ。立命館大学理工学部卒業。1990年「音」入会、1997年に第14回「音」短歌賞を受賞。2007年、第1歌集「天の腕」で第51回現代歌人協会賞を受賞した。高校生時代から歌を始めていることになり、かなり出会いは早い。高校時代の部活の顧問だった玉井清弘の影響のようである。
棚木の本職は数学教諭である。教師を本業とする歌人は多いが、理系は珍しい。歌の中に理系的なものが強く滲んでいるわけでは別にないが、学校生活のクールな描写が印象的である。
かなしみの朝(あした)廊下を少女ゆき喫煙を隠すための香水
検閲にむかし残業ありしかな採点にわれは魅了されゆく
すこやかにわが数式の伸びゆけり教室に生徒(こ)らのおらぬ時間は
相槌を律儀に打ちて馴(な)寄りくる生徒ありわれは何も与えず
忽然と電話の主はあさましく黒い感情を保護者とぞ呼ぶ
教室は廃車となりしバスなるや生徒とはここを去りし乗客
歌だけを見ると、熱血教師からは程遠い人物像に思える。人間くさい面をかなり濃厚にさらけ出している。しかし、本質的なところを突き詰めていくと生徒たちが持つ若さと青春への憧憬があるように思える。生徒たちは傷ついたり喜んだりの青春を過ぎれば学校を出て行き、教師である自分だけが一人残されてゆく。ビジネスライクな教師とはとても言えなさそうな素顔をのぞかせる。
もしかしてトマトの糖度に比べつつ受け入れたのか君のからだを
急いて食む駅のカレーの黄はあわれ揺れてるだろうわがのどぼとけ
筋を苛めて悦ぶわかさ今しばしわれに残るや明治を読みぬ
夕顔の咲き上るころ自転車を漕ぎてふともも悦ばしめつ
わが乱視のゆえか活字が厚みもつところわずかに体臭があり
相撲(すまい)する男少なくなりしより清(さや)かなる水は店に売らるる
ブイゆれて取り残さるる夏蝶を喩となす前に君に差し上ぐ
君が刃を当てて回せる梨の実の皮のほうより滲む水あり
全身を使った身体性への希求がみられる。特に目に付くのが性愛の歌と筋肉を鍛える歌であり、ともに強い身体性に根ざした詠まれ方をされている。作者の棚木はかなり堂々たる体躯の持ち主であるらしいが、そのことが関係しているのかもしれない。全身勝負の男くさい歌があるからこそ、相聞歌の透明感ある繊細さがより生きているといえる。
老いながら数式まみれなる人の躁の言葉は青空のごと
浮力という肉感を子に教うる日われの余生は始まりていん
きれぎれの雲の彼方に誤報とぶ気配のありて朝焼けは伸ぶ
天気予報わずかにはずれクロールの息継ぎ(ブレス)のような時間に会いぬ
Tシャツの胸にだぶだぶ風はらみプレパラートを午後は透かしぬ
秋逝きぬ光の速さの測定にガリレオが失敗し続けた季節
自らの心臓音を若者の行進の音と思っていた日
「天の腕」は逆年順になっており、後半には高校生から大学生時代の歌が収められている。ガリレオの歌はこの歌集でもとりわけすばらしい歌だが、これが高校生のときの作品だというからその完成度の高さに驚く。その一方で老成気味の気配も感じなくもない。
教師として生徒たちの若さと青春に自分が失ったものを見る一方で、壮年や老熟への憧れも強くみられるのが棚木の特徴である。あとがきでは、90年に高校に入学し99年に就職した自分を振り返り「『失われた十年』の影を曳きつつ、ここまで青春に決着をつけられずに来た。本書によって『若さ』に訣別したいと思う。」と綴られている。「若さ」への挽歌。しかしそれは単純に老成して古臭い作風になるということではないように思う。歌の中に潜むみずみずしい抒情性、青春性は決して失われない。しかしそれでも現実の苦味と必死で闘っていこうとする姿勢が、身体性を強く希求する作風にあらわれているのだろう。