松村正直は1970年生まれで「塔」所属、現在同誌の編集長を務めています。1999年に「フリーター的」で第45回角川短歌賞次席。東京大学文学部を卒業後、就職せずにフリーターをしながら全国の都市を転々としていたというちょっと変わった過去を持っています。短歌と出会ったのも流転する生活の半ば、函館で石川啄木歌集を読んだときだそうです。松村の歌の第一の特色は、まずそのような流浪人としての境涯詠です。
忘れ物しても取りには戻らない言い残した言葉も言いに行かない
逃げ動き続けた眼にはゆうやみの色がかなしいまでにやさしい
雨傘の下から見える町だけを僕は歩いてきたのだろうか
自己を「逃避者」と規定し、短期間でさまざまな街を移り変わる自分に対する苦い思いを抱えていることがわかります。「言い残した言葉も言いに行かない」という宣言は、逆に言い残した言葉があることを浮き彫りにするのです。こんな生活をすると決めたのは自分だったはずなのに、どうしても胸に空いた穴を埋めることが出来ない。淡々としているけれど、確かに深い悲しみを感じるのです。もう一つ、松村の歌には「一度きりの関係」という特徴的なテーマがあります。
温かな缶コーヒーも飲み終えてしまえば一度きりの関係
悪くない 置き忘れたらそれきりのビニール傘とぼくの関係
これも流浪の人生に深く関わりのあるテーマです。過干渉しあう人間関係を極度に恐れ、「一度きりの関係」の暖かさに身を任そうとする。あえて表面的な人間関係だけを愛そうとする姿勢は、ともすれば軟弱だと言われかねないかもしれません。しかし、都市に暮らす平凡な一現代人の多くはどうしても共感せざるをえない部分はあると思います。松村の歌は自身の生き方とともに現代社会に疑問を投げかけているのです。
「離婚した親を持つ子」であることも終わりと思う今日を限りに
かすがいになれなかった子もいつの日か父となる日を夢に見ている
第一歌集「駅へ」終盤の連作「結婚式」で、松村が放浪生活を選んだ理由が明かされます。彼が心に抱えていた苦悩や孤独は、現代においては凡庸なものかもしれません。しかし短歌という詩形は、ときに凡庸なひとりの生をリアルなものとして蘇生させることができるのです。短歌の私小説性を、実にうまく引き出すことの出来た歌人といえるでしょう。