トナカイ語研究日誌

歌人山田航のブログです。公式サイトはこちら。https://yamadawataru.jimdo.com/

現代歌人ファイルその60・柳宣宏

 柳宣宏は1953年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。大学在学中に窪田章一郎に出会い、「まひる野」に入会。現在同誌の編集委員である。若いころから短歌をはじめているベテラン歌人であるが、第1歌集「与楽」を出したのが2003年とかなり遅く世に出た。第2歌集「施無畏」は2009年の刊行である。
 柳の歌は山崎方代を思わせる、やわらかな口語体が特徴である。難しくない言葉で人生の真理をずばっと突いてみせるような歌が多い。それでいてユーモア感覚もあり、決して説教くさくはならない。

  見栄もなく外聞もなき一匹の蠅にも深き断念がある

  とぼとぼと歩いてゐても背中から月が照らしてゐるのであつた

  海からの風に吹かれて夏草がはじめて「ああつ」と言つたのでした

  どんぐりがどんぐりの木となることをつまらぬことだと思つてゐないか

  日を浴びてもみぢが谷へ落ちてゆくそれは終りといふことぢやない

  枝先に生れてきたのは春である木の芽のなりをしてをりますが

  勇ましいことはおほよそ恥づかしいすみれの花を見てごらんつて

  この春を木の芽ふくらむ楓の木こんな奴でもどうぞよろしく

  じぶんだけ日に当たりたいそんなこと思ひたる木のあるわけがない

  はればれと海の広がる渚ではまつすぐ歩くこともないつて
 悟りと諧謔の世界である。俗な人生論に流れてしまいそうなところをくっととどめているのが、自然に対する優しいまなざしだろう。自分が自然の中に生かされている存在であるという認識を強く抱いているようだ。
 「現代の歌人140」の小高賢の解説によると、30年以上も座禅を組んでいるという。長い時間をかけてひたすら自分を見つめ直し続ける。その結果がこの作風になっているのだろう。力を抜いたような口語。芝居がかった口語の過去形がいい味を出している。柳にとっての短歌とは、ひたすらに自己と格闘し続けるためのツールなのだろう。「どんぐりがどんぐりの木となる」自然を完全に肯定し、自分に与えられた環境の中で必死に生きようとする。それがすなわち自己との闘いなのだろう。

  とんぼには名がありません 太い尾に海のひかりを曳いて飛びます

  海原を飛んでゐるのはかもめですどこまで行つてもまる見えである 

  海辺ではしほからとんぼに勝てません波の飛沫をすれすれで越す

  真つ白な翼広げるかもめ見て思つたんだよ丸出しだつて

  妬んだり僻んだりして赤とんぼ人間だつて面白いんだぜ

  頭から尻尾の先まで一本の銀ヤンマとして貫徹したり

 特に目につくのは「とんぼ」の歌である。一本筋の通った姿でゆうゆうと飛び続けるとんぼの姿は、柳の理想像のようである。名をもたず小さな存在となってそれでも自由に飛び続ける。そういうとんぼに憧れを抱いている。また、「かもめ」の歌も特徴的だ。「まる見え」「丸出し」な存在として捉えている「かもめ」。柳もまた、大空を自由に飛びまわるときは自分のすべてをさらけ出して生きたいと思っているのだ。自己を丸見えにするということは、隠すものなどいらないほどに自分を徹底的に肯定するということである。もちろん実際に生きていて己のすべてを肯定するようなことは不可能かもしれない。しかし自己と徹底的に対話し、徹底的に自然と交信しようとする柳の姿勢からは、とてつもなく強い意志を感じるのである。

  百万の死をも辞さずと言ふけれど「お前が死ね」と言はれてごらん

  キッチンに息子の彼女に出会ひたり今日は歯ブラシを咥へてゐたり

  父さんの幽霊見ても母さんは「あなたどなた」つて言ふと思ふよ

  教卓の前の席にて笑ひをりあしたも来いよ笑はせてやる

  予告したとほりにひとを殺すから捕まへてぼくを抱きしめてくれ

  コーナーに追ひつめられて滅多打ちジンバブエ的超格闘技

  なにもない浜辺になんでもないひとりこの町に来たあの日のやうに
 第2歌集の「施無畏」には、社会や家族へ視点を向けた歌も多い。息子として母の介護に取り組み、父として子供と向き合い、教師として生徒たちと接する。いたって普通の日常のなかにもたくさんの苦しみがあり、そしてその苦しみすらも軽く肯定しようとしてみせている。決して無理はしない。このような強さはどこにあるのだろうか。自然や生き物に自らの心を託すことの巧みさ、楽しさが実によく味わえる歌人である。