トナカイ語研究日誌

歌人山田航のブログです。公式サイトはこちら。https://yamadawataru.jimdo.com/

現代歌人ファイルその23・魚村晋太郎

 魚村晋太郎は1965年生まれ。京都大学理学部中退。1996年に「玲瓏」に入会し塚本邦雄に師事。2001年「銀耳」で第44回短歌研究新人賞次席、2002年「空席」で第48回角川短歌賞次席。2004年には第一歌集「銀耳」で第30回現代歌人集会賞を受賞。2007年には第二歌集「花柄」を刊行した。
 現代詩と短歌を股にかけて活動する魚村の歌は、塚本譲りのレトリックが冴えている。だが口語的表現も多く、修辞面では塚本直系ながら、歌の中の世界観は岡井隆加藤治郎を彷彿とさせる甘やかな魅力を放っている。

  去年とは月の模様が違ふ、とか あまい誤謬を信じたくなる

  口のなかまで空が来た 寒いつてさむいつて言へおれのかはりに

  外はまだあかるい。明日は逢へないと言ひだしさうな百合の木のみどり

  すこしづつ冬をうしなふ木木の末(うれ)つめたい指が気持ちいいのに 
  窓にゐて五月の雨をみるやうに静かだひとの鬱にふれても

  あなたが退(ど)くとふゆのをはりの水が見えるあなたがずつとながめてた水

  ふゆの樹の体温だつた抱きしめてくれるとき背にまはす両手は
 いかにも塚本的な初句字余り、句跨りなども用いられているが、塚本と比べるとはるかに言葉の「余白」が大きい。象徴性によって綿密に構築された美意識の世界ではなく、より解釈の幅が広いメタファーを好む傾向(「ふゆの樹の体温」が典型的だろう)がある。そこがとても魅力的な相聞を生み出すことに成功する要素になっている。

  ゆつくりと人を裏切る 芽キャベツのポトフで遅い昼をすませて

  ぼくたちは失敗のあとを生きてゐるポットにティーの葉ををどらせて

  残酷な包みをあけた日があつた 花水木、風に白をかかげて

  僕たちは信じなかつた椅子たちの円卓からの自由、だなんて

  ゆるされて、あなたは皿の仔羊の肉によりそふ香草である
 「残酷な包み」とはどんな包みか、誰に何を「ゆるされた」のか。そういった重要な情報が欠落している「隠す文体」である。そしてそこから淡くやわらかなポエジーが生じる。こういった表現は岡井隆直系かと思われる。すべてを包み込むような清らかな愛も、あるいは濃厚なエロスもそのなかに閉じ込めうる文体だ。そして決して軟弱ではない男くささもその奥に秘められている。

  日常にわれら死す 夏ひばり火の囀り耳の底に封じて

  栞の紐がついてゐるのに伏せて置く本のページのやうに週末

  断面の苺 あなたが見殺しにした真冬から葉書が届く

  秋の水みたされてゐる望んでたことの多くはしなかつたけど

  これ以上くづしたら誤字になりさうな具合に偏と旁 抱きあふ

  つぎつぎと繭の背われてわたくしの(不安だ)冬の空あらはれる

 そしてこれらの歌のように巧みなレトリシャンぶりを味わえる歌も少なくない。いかにも塚本的な一首目や、全体が直喩に収斂される二首目などは、その巧さに唸らされる。「望んでたことの多くはしなかつた」のような心にぽっかりと穴の空いた不在感覚は魚村の歌全体に流れているテーマである。誰もがどこかに欠落を抱えていて、それを埋め合わせるかのように慰め合う。その不安定さを「誤字になりさうな」偏と旁に喩えるというブッキッシュな視点も面白い。そのような「欠落」の感覚を味わうと、魚村が塚本的修辞に傾倒しながらもやわらかな世界観を志向する必要があった理由が伝わってくる。魚村が喪失したものは「敵」なのだと思う。闘うべき何かを失ってしまったことで生じる虚しさと、埋め合わせとしての愛。それらが表現されるとき、日常から少し遊離したフラットな世界を生きねばならない人間の姿が悲しみとして迫ってくるのである。