トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその22・飯田有子

 飯田有子は1968年生まれ。東京女子大学卒業、共立女子大学大学院修了。「早稲田短歌会」や「まひる野」を経て「かばん」に所属している。第一歌集「林檎貫通式」は2001年に刊行された。飯田はもともと古風な文語短歌を作っていたが、「かばん」ではかなり先鋭的な口語短歌を発表している。

  のしかかる腕がつぎつぎ現れて永遠に馬跳びの馬でいる夢

  にせものかもしれないわたし放尿はするどく長く陶器叩けり

  婦人用トイレ表示がきらいきらいあたしはケンカつよいつよい

  球体にうずまる川面いやでしょう流れっぱなしよいやでしょう

  純粋悪夢再生機鳴るたそがれのあたしあなたの唾がきらい

  ティッシュ配る姿馬鹿みたいに見ていたわフードに猫が重たかったわ
 全体を通じて「嫌悪」の匂いが通底していることに気付く。「婦人用トイレ表示」が表しているジェンダーから「球体にうずまる川面」のようなシュールな心象風景まで、あらゆるものが悪夢と化し、また世界を蝕む「汚れ」となる。このような嫌悪感覚の背景にあるのは少女期独特の過剰な潔癖さといえる。飯田は歌の中において「悪夢を見続ける少女」という自己像を設定しているのだと思う。少女にとっての悪夢とは「汚れ」である。それは容易に言葉で表すことができない、本能的で感覚的な潔癖感なのだ。言ってみれば、人間である限り避けることのできない業のようなものへの忌避感かもしれない。二首目がそうであるが、飯田の歌には「尿」というモチーフが頻出する。これはそのような「逃れようのない汚れ」が最も端的に象徴されたものかもしれない。人間である限りは、排泄から逃げることはできないのである。それと同様に、生きていく限りは他の命を奪わねばならないし、周囲のものを壊さねばならない。そういった現実へのきっぱりとした拒否が体を貫いている。
 そして飯田の歌う「嫌悪」の世界は自己の分裂にまで至り、定型を壊して自由律へと近づいていく。

  すべてを選択します別名で保存します膝で立ってKの頭を抱えました

  たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔

  かんごふさんのかごめかごめの(*sigh*)(*sigh*)(かわいそうなちからを)(もっているのね)
 この奔放な歌いぶりは新鮮な驚きがあるとともに、どうしようもない暗さもまた感じさせてくれる。一首目の「すべてを選択します別名で保存します」はマッキントッシュのコマンドからの引用である。既成フレーズの引用は斉藤斎藤も好んで多用するテクニックだが、機械的音声が突然生の声に変化していくような気味の悪さがある歌だ。二首目は大破調として有名な歌である。「たすけて枝毛/姉さんたすけて」ではなく、「たすけて枝毛姉さん」で一つながりである。おぞましいものにまで助けを求めようとする切迫した世界観は、精神に来るタイプのホラー映画のようである。
 もちろん、抒情的な歌や相聞歌もある。しかしやはり一筋縄ではいかない。

  夏空はたやすく曇ってしまうからくすぐりまくって起こすおとうと

  オーバーオールのほかなにも着ず春小麦地帯をふたり乗りで飛ばそう

  折り重なって眠ってるのかと思ったら祈っているのみんながみんな

  さるぐつわあたしにかける手の甲のにおいでぜったい見分けてあげる

  ひまわりのはっぱの下で厳粛にたちしょんべんをしてみた真夏

  胸と胸寄せあうときもバスタブに抱き合うときもただのさむがり
 一読するとさわやかな印象も与えうるのだが、何かがひっかかる。みんながみんな折り重なって祈っている情景も、さるぐつわをかけられている情景も、やはりどこか歪んで狂っている。「春小麦地帯」という地理用語を用いた美しい歌も、オーバーオールのほかなにも着ていないという異常さが簡単に性衝動を起こすことができる人間の業を見透かす悪夢につながっていく。
 飯田の歌は次から次へと悪夢ばかり映し出す映写機のようである。そしてそれは悪意から生まれてくるものではない。「たすけて」というとてつもなく純粋な叫びが根底にあるのだ。思春期前後の少女の潔癖と孤独をグロテスクともいえる方法で切り取った手腕は、実に鮮やかなものであるといえる。