トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその134・高木佳子

 高木佳子(たかぎ・よしこ)は1972年生まれ。1999年に「潮音」に入会し、波汐國芳に師事。2005年に「片翅の蝶」で第20回短歌現代新人賞を受賞。2007年に刊行した第1歌集「片翅の蝶」で第5回短歌新聞社第一歌集賞、第14回日本歌人クラブ新人賞を受賞した。福島県いわき市在住の歌人である。
 「潮音」は葛原妙子が所属していた歌誌である。高木の作風もその延長線上にあるのか、ありふれた日常の中に陰が差すように幻想が入り混じる独特の作風である。

  翅もつを羨むやうに蟻たちが掲げて運ぶ蝶の片翅(かたはね)


  星座図の星省かれてわれもまた見逃されゆく星のひとつか


  無口なる子が編む花の冠を受け取るために夕映えにゐる


  わが知らぬ世界に立てる少年に追ひつくために日傘を閉ぢむ


  木馬らは塗りかへられて遊びたき子らを拒めり冬の真昼に


  三輪車つめたく錆びて置かれをり子に叛かれし老母のごとく


  白鳥は光の粒子 つらなりて線になるとき空は輝く


  わが肩につばさ附けたし針をもて刺しゆく刺繍は春の雲雀ぞ

 日常の何気ない一瞬を見逃さず、その裏に隠されているものを幻視しようとする。それが高木の歌の基本であるように思う。過度にきらびやかな修辞は施さず、暗渠の中に潜む一筋の光のように、かすかな違和感にも似た抑制された詩的表現を好むところがある。

  指さきに鶴を折りたりつばさもて空を駆けたきこころ託して


  わが展翅(てんし)を解かむがために結ひあげし髪を留めたるピンを引き抜く


  屋上の道化がくれし風船よ子の手を抜けて空を翔けむか


  黒揚羽 意志の塊(マツス)となりながら強く羽ばたき海を越えゆく


  果てしなきもの見つけむとこの空を貫きてゆく雲雀を妬む


  格子なき檻とも思ふ梅雨空の廚を脱けてわが鳥は翔べ

  
  荒野より小鳥発つなりそれぞれの翼に明日の匂ひをさせて

 蝶、鳥、飛行機、風船など、「空を飛ぶ」モチーフが非常に多いのが特徴である。そして自らを飛べないまま空に憧れる存在として描き続けている。その一方で自由に空を羽ばたく存在として羨んでいる存在があり、それは子供である。

  子のあるを昏(くら)き芯とし笑むわれは母とふ言葉に唇を噛む


  叛かるる日を予感する酷薄の母が唄ひし子守歌聞け


  炭酸水ぬるみてゆくを忘れゐる時間なるかな希望といふは


  陽の中へ疾駆せよ五月 少年を待ち受くるものあまた光れる


  子は光る破片ひろへり また一つ出生からの地図につなげよ


  記憶せよ少年の日を 夏帽に海を掬ひて空映せしを


  をのこ児は助走はじめき 目の前の小川と母をいま越えむとし


  蝗らを発たしめて子は野を走るまだ余剰なる思想を持たず


  海を掬ふ子の手のうちにわが知らぬ何か光りきあるいは希望


  少年の集めし羽のひとひらをわが背に附くれば遠くゆけよう

 「片翅の蝶」は出産から子供の成長にかけてが描かれており、分類としては育児詠をメインとする歌集である。しかし生活感がまるでない。「たった一人のわが子」として描かれているというよりは、余計な荷物をまだ背負わずに未来への希望を抱えた眩しい存在として一般化されている。そして子供を抱えることによって、母は自由に飛翔できなくなることを感じている。子はいつか母に叛くものであるという諦念もある。これは即ち自らの母との関係がまた繰り返されていることの予感なのだろう。
 高木の描く少年像のきらめきは、森岡貞香や葛原妙子に通ずるところがある。日常から遊離し、しかし現実感も決して失っていない少年性の輝かしさ。それに対置して母親として、女性としての内省的な思いもしっかり描写しているところが、この独特の陰影の味わいを形作っているのだろう。