甘い甘いデニッシュパンを死ぬ朝も丘にのぼってたべるのでしょう
第3歌集「手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)」から。穂村弘と甘いパン、というと「世界音痴」所収のエッセイにも書かれているチョコスティックパンのエピソードを思い出す。窓を閉め切った自室のベッドで菓子パンを食べ続けるということが、社会になじめない人間の甘さの象徴として用いられていた。この「甘い甘いデニッシュパン」もそれと近い匂いがする。
人生は有限であり、どんな人間もいつか死を迎える。しかし〈私〉の生活はいつまでたっても先が見えないまま同じことを繰り返し続けている。単調な生活。しかし「甘い甘いデニッシュパン」を食べ続けるような日々は、経済的な困窮などといった類の切実さとは違うタイプの焦燥感がある。甘いデニッシュパンを好む子供っぽい味覚と、いつまでも大人になりきれない精神が二重あわせになって表現されている。穂村にとって菓子パンは母親がどこからか買ってきて置いていてくれるものだった。それと同じで甘いデニッシュパンもまた、誰かがくれる施しのようなものなのだ。がむしゃらになって自分の力で何かを手に入れることもなく、自覚もないままなんとなく誰かの庇護下にいるまま老いて死んでゆく。そんな予感を、はてしない絶望と捉えているのがこの歌なのである。
これ以上何かになること禁じられてる、縫いぐるみショーとは違う
この世界のすべてのものは新しい名前を待っているから、まみは
終わりなき世界への反抗。庇護してくれる誰かを何一つ超えられないまま死んでいくことの拒否。「手紙魔まみ」において「まみ」が抱き続ける世界への違和感は、やがてはっきりとそうした態度表明につながっていく。「まみ」もいつかはデニッシュパンを投げ捨て、丘を越えて「誰か」のもとに駆け出していく日を待っているのである。