トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその45・吉村実紀恵

 吉村実紀恵は1973年生まれ。お茶の水女子大学教育学部外国文学科卒業。1995年より「開放区」に参加し、1997年「ステージ」で第40回短歌研究新人賞次席。1998年に第1歌集「カウントダウン」を発表した。
 吉村の短歌のテーマは自分が現代人ではないように思えるという「生まれた時代を間違えた」異人感覚が基礎になっている。「ステージ」はロックをテーマにした連作であるが、そこから透けて見える作者の姿はかなり古めかしいロックが好きな女性である。90年代初頭が時代背景と思われるが、出てくるモチーフなどのせいもありそれより古い時代のように思える。

  路地裏にギターつまびく青年よ生きる時代を間違えたのか

  ドラッグの抜けた歌声響きくる武道館にも空はあるはず

  平凡なOLだったアンコールに下着一枚で踊っていたのは

  意識して貧乏暮らしを始めたる文学少女科ミュージシャン専攻

  「君にあの時代がわかるはずがない」憧れは今も空に渦巻く

  白ヘルもシュプレヒコールもない日々にロックで時代が変わるだろうか

 「生きる時代を間違えたのか」という問いかけはすなわち自分自身へと跳ね返っている。ロックが時代を変えていた頃。それこそ自分が生まれた年代の頃にひたすら憧れている人物像が描かれている。また、自身がロックバンドに熱中していた頃の思い出も短歌にしているが、かなりパンキッシュな内容である。こういう題材は短歌には珍しい。

  この店を流れるチャック・ベリーには少しうつむく思い出がある

  奇抜メイク施して我らどこまでも挑発していた素顔ってやつを

  ステージでギター燃やして去ることの意味を拒みて膝尽き崩す

  両サイドスピーカーより全身へ巡り来たれりカウントダウン 
  客席の生む暗闇へ真っすぐに今ひとすじの航路が見える

 吉村によってロックは社会への挑発であり、仲間との絆を確かめる青春の象徴だった。自分が知るはずもない過ぎ去った時代への郷愁は、ステージ上という幻想空間に飛び込むことで疑似的に叶えられていたのだ。しかしその幻想空間の裏側には現実がべったりと貼りついていて、現代のとりわけ都市文化への絶望というかたちとなって立ち現われてくる。

  新しき水着のための剃毛にふさわしきかな六畳一間

  高層のビル群ゆらめき重なり合う涙ひとつで地球はゆがむ

  美容師のハサミに嘘を見抜かれてあやまりながら落ちてゆく髪

  ごみ箱をあさる男が新聞の一面記事に暫く見入る

  無言電話に我も無言で応えおりさびしきものは繋がれている

 都市文化に紛れて生きることへのどうしようもない苛立ち。ときにクールでどきっとするような視点を見せてくれるが、根本にあるのは「不機嫌さ」なのだと思う。都市風景を丁寧に見つめて掬いあげてみせる手腕から、それまで気づいていなかったような現代人の孤独が照射されていく。
 とりわけ目につくのが、「かたち」というフレーズである。自分のからだがふにゃふにゃした液体のようなものに感じてしまいうまく保てないという意識を強く持っている。そういう身体の不定形感覚は江戸雪をはじめ女性歌人に多くみられる。しかし吉村の場合、社会がそういう不定形な身体を許さず、定型に押し込めようと強制してくるように感じるというある種の被害者意識があるのが特徴だ。

  そんなにもがんばらないで手のひらに落ちた涙の表面張力

  別れ際にのこした言葉、脱ぎ捨てた形状記憶シャツの静けさ

  何か儚い言葉をかたちにしたい朝ホットミルクの膜に皺寄る

  中吊りのエステ広告揺れながら「まずはかたちを、目に見えるものを!」

  自称フェミニスト青年にこれきみのかたちといいて紙を切り抜く

  ひとすじの涙が頬をつたう夜ヒトのかたちに紙切り刻む

  人間はヒトのかたちであることを疑いもせず生きていられる

 目に見えるようなはっきりとしたかたちを持つ身体ではないことに負い目を感じると同時に、かたちを押し付けられることにも反発する。しかし、言葉だけは「形状記憶」でありたい、「かたちにしたい」と願うのである。人間であること、女性であること、子であることや恋人であること、たくさんの型抜きにはめられながら生きていくことへの抵抗として、あえて定型で言葉を紡ぎだす。他者の多くは身体に定型を持ちながら言葉ばかりは不定形だ。自分だけは、はっきりとたった一つのかたちをもった言葉を持っていたい。不安定なアイデンティティを抱える現代人こそ、定型を必要としているのかもしれない。