トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその1・斉藤斎藤

 寺山修司塚本邦雄岡井隆の「前衛短歌」、そして加藤治郎荻原裕幸穂村弘の「ニューウェーブ」は、単に斬新な短歌というばかりではなく多大なフォロワーをも生み出し一つの「モード」を作り上げました。このような「モード」の刷新は、従来の短歌を革新しただけに留まらず、短歌のフィールドそのものに新たな領域を付け加えたわけです。ソフトだけではなくハードをも変えていく運動だったといえます。
 では現代に、このような「モード」の刷新をしうる歌人はいるのかというと少し悩んでしまいます。しかしそれに一番近い存在といえそうなのは斉藤斎藤です。1972年生まれで「短歌人」所属。2003年に「ちから、ちから」で第2回歌葉新人賞を受賞。

  「お客さん」「いえ、渡辺です」「渡辺さん、お箸とスプーンおつけしますか」
  上半身が人魚のようなものたちが自動改札みぎにひだりに

  内側の線まで沸騰したお湯を注いで明日をお待ちください  
  黄色い線の内側に下がる人類よみな俺知れずしあわせになれ

 日常的な会話や風景の中にあえて持ち込むねじれ。それが一種の言語トリックのようなかたちで成立しているのが最大の特徴でしょう。コンビニでわざわざ本名を名乗る。普通の人間を「上半身が人魚」と表現する。既存のコピーに手を入れる。いずれにせよ、社会的に浸透している「ことばのルール」を意図的に破壊している。ウィトゲンシュタインが「言葉として成立していないからそこに問題は存在しない」と指摘したような哲学の命題を、あえてナンセンスな文章として定型に乗せているわけです。
 ことばの力で世界を反転させる。それは穂村弘の言う「言葉のモノ化」をさらに推し進め、「言葉によって成り立つ世界のモノ化」にまで達しています。もちろんそれは単に言葉遊びをするということではありません。斉藤斎藤の歌に満ちているのは「自己」という存在への実存的な問いかけであるのは明らかです。  
  お母さん母をやめてもいいよって言えば彼女がなくなりそうで
  ぼくはただあなたになりたいだけなのにふたりならんで映画を見てる

  あなたの匂いあなたの鼻でかいでみる慣れているから匂いはしない
 拡散して、混乱していく「主体」。社会の中で相対的なアイデンティティだけを与えられ、絶対的な実存を喪失した存在。自分も他人も所詮は皆そういう存在なんだ。それは非常に哲学的な思考だけれど、複雑化してゆく社会の中で生きるうえでは素朴な実感ともいえます。そのような実感をかたちづくったのが不安定なフリーターという作者自身の境涯なのでしょう。実存という哲学的テーマと、言語トリックという文学的テーマと、自分が置かれた社会的立ち位置。それらがないまぜになって斉藤斎藤という新しい「モード」は作られたわけです。