トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその73・澤村斉美

 澤村斉美は1979年生まれ。京都大学大学院文学研究科美学美術史学専攻博士課程中退。京大短歌会を経て、「塔」「豊作」に所属。2006年に「黙秘の庭」で第52回角川短歌賞に選ばれ、第1歌集「夏鴉」で第34回現代歌人集会賞、第9回現代短歌新人賞を受賞した。
 初めて「黙秘の庭」を読んだときは、底力は感じるものの地味な作風の人という印象だった。同年の次席だった松崎英司「青の食單」が作者の実存をたっぷり詰め込んだ比較的派手な作風であったことも影響していたのかもしれない。しかし澤村の堅実な才能は着実に伸びていき、作品を発表するごとに成長を重ね、「夏鴉」はその結実ともいえるすばらしい歌集に仕上がっていた。
 まず目を引くのは、さわやかで気持ちのいい相聞歌である。

  逆光の鴉のからだがくつきりと見えた日、君を夏空と呼ぶ

  からだの中の柊を見てゐるやうな君のまなざし 逢ひたいと言ふ

  海のあることがあなたを展(ひら)きゆく缶コーヒーに寄る波の音

  逢ふまでの時の長さにはさみ込む文庫の栞よぢれたままで

  噴水のひらいてとぢる歌ありき二十五歳の君のWordに

  紅葉葉は枝のさきから散りはじめ君の生真面目追い詰めてしまふ

  君のゐない窓に秋の陽おとづれてポートレートのごとくうなづく

  たくさんの窓に映つてゐた君を見送るといふでもなし窓は

 これぞまさに青春詠といえる青々しさが魅力的だが、恋人らしき「君」の実在性のなさが印象的である。「君」はいつも影や写像のように一瞬だけあらわれては消えてしまうような感触がある。「君」の輪郭はつねにぼやけてはっきりしない。その一方で作者自身の〈私〉像はくっきりと映っており、そこに「青春とは常に他者の持ち物」とでも思っているようなどこか醒めた視点を感じる。

  雲を雲と呼びて止まりし友よりも自転車一台分先にゐる

  死ののちもしばらく耳は残るとふ 草を踏む音、鉄琴の音

  ミントガム切符のやうに渡されて手の暗がりに握るぎんいろ

  あたふたと女の人が駆けてくる向かひのビルの窓の中まで

  フリーターでもなく学生でもなくてわれの半人半獣の礼

  いくつもの場所で生きたりいづれにも寡黙とされる私がゐる

  遠いドアひらけば真夏 沈みゆく思ひのためにする黙秘あり

  考へぬための時間を予約せり秋晴れのけふ歯科へと向かふ

  時をわれの味方のごとく思ひゐし日々にてあさく帽子かぶりき

 「黙秘の庭」で描かれているのは、大学院での研究をあきらめ、しかし職は見つからず宙ぶらりん状態のまま過ごす日々の日常である。文学のテーマとしてはかなり淡くつかみ所のないものがある。しかし「黙秘」という言葉がもつ真意がはっきりと示されるとき、〈私〉という物語に奥行きが増す。いくつ「居場所」をつくっても「寡黙」とみなされるような、決して〈私〉から逃れることのできない〈私〉。壊すことのできない自我が相対的に他者の姿をぼやかし、周囲の風景ばかりをクリアに見せる。渡されたミントガムを切符のようだと捉える発見はすばらしく鋭いものである。時を「味方」と思えていたのは、他者とぼやけたままの関係性を保つことが許されていた日々だからなのだろう。「フリーターでも学生でも」ないむき出しの〈私〉を得て、作者は初めて他者の姿をクリアに捉えるようになったのだ。

  「一日中放課後みたいなものですね」梅雨の雨のなか軽くうなづく

  ばか欲望が降つてくるわけないだらう麦茶のパック湯に沈まずに

  十六歳(じふろく)の弟の悩みの遠因としてわれはあり夏雲の階

  喪主として立つ日のあらむ弟と一つの皿にいちごを分ける

  減りやすき体力とお金のまづお金身体検査のごとく記録す

  骨がよく鳴るからだなりかなへびのポーズで骨としばらく遊ぶ

  はじめから失はれてゐたやうな日々海沿ひの弧に外灯が立つ

  決別といふほどのことわれはせずひとりで閉ぢゆく扉を思ふ

 「弟」は〈私〉と他者の中間点に位置する人物として不思議な存在感を与えられて描かれている。基本線となっているのは「寡黙」な性格ゆえかと思える抑制の効いたリアリズムである。他者を含め自分の身近にあるものを改めて見つめ直すことで、「青春」の日々に区切りをつけたのだろう。しかし「決別といふほどのこと」はしない。それまでの日々の延長線上をひたすら過ごそうと決意する。すぐ近くにいたはずの人々のことだって、知らないことはまだまだたくさんある。青春の終わりとは、今まで出会ってきた人々と再び出会い直す旅のはじまりなのかもしれない。