トナカイ語研究日誌

歌人山田航のブログです。公式サイトはこちら。https://yamadawataru.jimdo.com/

犯罪者を詠む

  おれの中の射殺魔Nは逃げてゆく 街に羞(やさ)しい歌が溢れても  谷岡亜紀

  バモイドオキ 僕だけのための神だから僕だけのために僕が名づけた  山田消児

  BVDのブリーフつけて血に濡れてかの日の川俣軍司いとほし  島田修三

 藤原龍一郎という歌人は固有名詞を「時代の季語」と捉え、芸能人などの固有名詞を詠み込んだ歌をたくさん作っています。しかし同じ固有名詞でも、犯罪者の名前というのは「時代の季語」としても激烈なイメージを持っているように思えます。
 上に上げた三首はいずれも「犯罪者」の歌。一首目の「射殺魔N」は連続射殺事件の永山則夫のこと。二首目は神戸連続児童殺傷事件、いわゆる酒鬼薔薇事件。三首目の川俣軍司とは1981年に起こった深川通り魔殺人事件の犯人で、逮捕時に白いブリーフとハイソックスという異様ないでたちだったことが人々の記憶に残ったとか。これらの歌に共通してみられるのが、普段は押し殺している内なる暴力性や異常性が犯罪者たちに託されていることです。暴力衝動・破壊衝動は誰の胸にも眠っているもので、ひとつ間違えれば「彼ら」は自分だったかもしれないというシンパシーが、ときに叙情となりうるのです。叙情とは必ずしも美しかったり悲しかったりするものばかりではありません。限りなく「悪」にも似たほの暗い叙情というものもあり、それを表現するために犯罪というモチーフが用いられているのでしょう。さらに犯罪者の名前という固有名詞を使うことでそのほの暗い叙情が「時代の陰」であることを強調する目的もあるのでしょう。題材となった犯罪者のチョイスが、それぞれの歌人のキャラクタをよく表していて興味深いです。

  「あいりは二度殺された」などと言う権利は父にもないなどと言う権利  斉藤斎藤

  わたしがもし宅間だったら 宅間がもしわたしだったら

  殺される自由はあると思いたい こころのようにほたる降る夜
  あきらめては ちから あふれ あこがれては ひかりこぼしてとんで ただよい

 斉藤斎藤の連作「今だから、宅間守」は大阪池田小児童殺傷事件の宅間守に自己を重ねたもので、非常に挑発的な作品です。犯罪者が抱いている孤独や痛み、悲しみといった側面を出来る限り削ぎ落とし、残酷な言葉を破調気味の定型に乗せてゆくことであえて道徳性に立ち向かっているのは、今までの短歌にはなかった点です。宅間守の心の孤独は、せいぜい「こころのようにほたる降る夜」という美しい比喩でもって表現されるのみです。そして、漂う蛍の光に自らの人生を重ね合わせる四首目に、連作の真の主題は込められているのでしょう。逆に言えば、斉藤は自分自身の生の比喩として漂う蛍を用いることは出来なかった。宅間守という他者の人生を自らの中に取り込まなくてはならなかった。そのことを思うとき、単なる「時代の季語」を超えた「犯罪詠」も在り得ることをひしひしと感じるのです。