トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその3・今橋愛

 今橋愛は1976年生まれで、京都精華大学を卒業し23歳から作歌をはじめたそうです。2002年に「O脚の膝」で北溟短歌賞を受賞してデビュー。その作品は、伝統的な短歌のスタイルとはかなり趣を異にしています。多行書き、一字空け、行空けなどビジュアル効果を意識したレトリックが多用されるため、一見したところでは「この人短歌読んだことないのか?」と思われてしまうかもしれません。しかし少し読み込んでみればそれらのビジュアルな修辞が自由詩の影響下にあるもので、実はかなり周到な計算を働かせていることがわかるのです。

  そこにいるときすこしさみしそうなとき
  めをつむる。 あまい。 そこにいたとき



  「水菜買いにきた」
  三時間高速を飛ばしてこのへやに
  みずな
  かいに。



  としとってぼくがおほねになったとき
  しゃらしゃらいわせる
  ひとは いる か な

 甘やかでふわふわした世界観はとてもあやうく脆い雰囲気を湛えていて、思わず目を引き付けられてしまうところがあります。読めばわかるように、改行や一字空けは「つぶやき」のリズム、つまり朗読したときの間や呼吸を意識しています。「ひとは いる か な」のようなフェイドアウトを意識した字空けは、穂村弘も歌集「手紙魔まみ、夏の引越し」にて取り入れています。散らし書きといわれるもので、ただの文芸ではなく視覚や聴覚も含めた総合アートとしての短歌を追及しようという意識が垣間見えます。実際、書道やタイポグラフィーなんかは短歌ととても相性がいいわけです。ここらへんは美大出身者のセンスでしょうか。
 また、句跨りが多用されつつも基本的には定型のフォルム内であることも重要な点です。「水菜買いに/きた三時間」のように文節の句切れが五七五七七それぞれの句を跨っているのを句跨りというわけですが、これは塚本邦雄がパイオニアである前衛短歌の手法です。実は先人の手法を抜け目なく消化しているのです。「ぼくがおほねになったとき」という言葉にもみられるような濃厚な死への意識というものも外せません。

  日本中数えきれないひとがいて
  そのほとんどに会わないでしぬ?



  もちあげたりもどされたりするふとももがみえる
  せんぷうき
  強でまわってる



  かんたんに「原ばく落とす」とか言うな
  わらうな
  マユリーをつれて帰るな
 
 今橋の歌世界を覆っているものはつねに「死」と「己の無力感」への恐怖です。何も出来ないまま、何か出来る力もないまま死んでゆくのだろう。そんな予感に打ちのめされるようにして生きている。「せんぷうき」の歌は性愛の歌ですが、幽体離脱的感覚のうえに8ミリで接写したような粗い映像イメージが浮かびます。セックスのときでさえあらわれる、ただひたすらに無力な自分の身体が異物のように客観的にみえてくる一瞬。「わらうな/マユリーをつれて帰るな」という分裂気味なまでに悲痛な叫び。「このまま何も出来ずに死んでゆくの?」という問いかけはひたすらに自分自身にだけ向けられているのです。今橋愛という歌人は、多行書きのような視覚的レトリックと、それとは対照的に言語的レトリックを取り払ったかのような文体(穂村弘は「棒立ちのポエジー」と呼んでいる)に注目されることが多いですが、その根本的なテーマは誰もが共有しているような普遍的な思いなのです。