トナカイ語研究日誌

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穂村弘百首鑑賞・28


  夢に来て金の乳首のちからびと清めの塩を撒きにけるかも
 自選歌集「ラインマーカーズ」から。「手紙魔まみ」の番外編といえる「手紙魔まみ、イッツ・ア・スモー・ワールド」からの歌である。この一連はタイトル通り「相撲ワールド」であり、なぜか力士が戦場に派遣されるというわけのわからない状況が描かれている連作である。キッチュな世界観を標榜してきた「手紙魔まみ」がなぜ相撲というキッチュから程遠いモチーフを選んだのかというと、キッチュから程遠いことそれ自体が理由なのであろう。キッチュな世界に突然力士が紛れ込む、その不条理さが「手紙魔まみ」が志向する世界観なのである。
 掲出歌の場合、「金の乳首のちからびと」が「まみ語」的物言いで表現した力士像となっている。もっとも注目すべき点は「撒きにけるかも」という文語の締めである。穂村弘は口語歌人であるが、締めに文語を持ってくるという歌は意外に少なくない。しかしそんな中でも「けるかも」はかなり異質である。斎藤茂吉はよく使っていたが、現代では文語歌人でもあまり使わない。こういった「けるかも」調を意識的に用いることは、近代短歌のステレオタイプ的文体をからかうような意味合いがあるのかもしれない。

  赤と緑の村上春樹読み終へて「ケルカモアハレナリケリね、これ」  西田政史
 「赤と緑の村上春樹」とはもちろん「ノルウェイの森」のことであるが、「ケルカモアハレナリケリ」とはすなわちいかにも日本的な抒情ということである。アメリカ文学かぶれの村上春樹だって、根本的な抒情の質はきわめて日本的だと言いたいのだ。穂村が用いた「けるかも」もこの「ケルカモアハレナリケリ」の延長線上にあるのかもしれない。近代的なものに潜むいかにも日本的な抒情を「金の乳首のちからびと」という可愛いような可愛くないような不思議な存在に託す。「相撲」は、穂村が抱いている「日本的なもの」のイメージの象徴なのだろう。それではまるで外国人が持つ日本のイメージではないかと感じるが、まさにその通りであり穂村は日本にいながらにして常に異人的な感覚を味わって生きているのだと思う。「日本」に対する複雑な感情が「けるかも」の詠嘆のようで詠嘆ではない文末に込められている。