トナカイ語研究日誌

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ピーター・レフコート『二遊間の恋』

 正式なタイトルは『大リーグ・ドレフュス事件 二遊間の恋』、原題は『The Dreyfus Affair』。邦訳は石田善彦。1992年にランダムハウスより刊行され、1995年に邦訳版が出た。この作品は野球小説であり、ゲイ小説であり、恋愛小説である。そのすべての分野において高いレベルを保持しているという驚くべき一作だろう。
 メジャーリーグのロサンゼルス・ヴァイキングスに所属する遊撃手、ランディ・ドレフュス。攻走守すべてに長け、MVPの最有力候補。美人の妻と双子の娘を持つ良き家庭人でもある。そんな彼が、鉄壁のコンビを組む黒人の二塁手、D・Jのたくましい裸体をシャワールームで目撃してしまい激しい恋に落ちる。自分のこの感情がばれたらとんでもないことになると悩むランディ。チームメイトと深く関わらずクールにやり過ごすことで自らの性指向を隠してきたD・J。やがて二人は結ばれるが、隠し通せなくなっていきアメリカ中を揺るがす大スキャンダルに発展する。コミッショナーエスターヘイジーは二人をメジャーリーグから永久追放する決断を下す。事件を追い続けてきたベテランの野球記者ゾラは、それに対して「私は弾劾する」と激しい反駁記事を執筆する――。
 この話の元ネタになっているのはフランスで起こった欧米では著名な冤罪事件「ドレフュス事件」である。主人公の名前は冤罪被害者となったドレフュス大尉から。ゾラ記者の名前は事件への弾劾記事を書いた作家エミール・ゾラからである。実際の冤罪事件をメジャーリーグへと場所を移し変えてメタファー化した小説なのである。
 この小説では、野球がアメリカにとってどういう存在なのかが繰り返し語られる。良き家庭を持ち良き仕事をする「模範的アメリカ人」の象徴たるスポーツ。テニスやフットボールではそれには及ばない。大衆を熱狂させ子供の憧れとなる「あるべきアメリカ人男性」を体現するのがメジャーリーガーだからこそ、性指向はストレートでなければならない。
 もちろんこれは一種の欺瞞ではある。不倫や暴力で家族を傷つけるメジャーリーガーは弾劾はされても追放まではされない。またこの「模範的アメリカ人」像は白人であることが無言の前提になっている。ランディが白人でD・Jが黒人であることも、実は意味を持っている。人種問題もまたこの小説の柱となるテーマの一つなのである。そういえば、重要なメタファーとして登場するランディの愛犬は、白と黒のまだらのダルメシアンだ。
 著者のピーター・レフコートは映画のシナリオライター出身のため、構成は映画的で非常にドラマチックである。グラウンド上のランディとD・Jに対して差別行為を繰り返すファンたちの気持ち悪さを耐えていった先に、ゾラの記事で状況が一変していくカタルシスが味わえる。話の中に幾度と現れるランディとD・Jの息のあったダブルプレーの描写。その完成された動きの美しさを読むにつれ、「模範的アメリカ人」のスポーツ・野球への、著者の愛憎入り交じった気持ちが伝わってくる。野球に関するデータのやたらと細かい設定は、本当の野球好きでないと書けない代物だろう。
 訳者の石田善彦は札幌市に住んでいた翻訳家で、2006年に63歳で亡くなっている。若い頃は「新譜ジャーナル」で吉田拓郎のインタビュー記事を書いたりしていた音楽ライターだったのだが、後に英米ミステリの翻訳家へと転向した。翻訳の師は小鷹信光という人であるが、彼の娘婿が実は東浩紀だったりする。
 石田氏が商売的な面を抜きにして翻訳することを願った本が日系アメリカ人の詩人、デイヴィッド・ムラの自伝的作品「僕はアメリカ人のはずだった」である。この作品には大野一雄が登場する。移民国家アメリカの放浪するアイデンティティ固執するのは、石田氏がやはり移民の大地である北海道出身だからではないかと思う。

二遊間の恋―大リーグ・ドレフュス事件 (文春文庫)

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僕はアメリカ人のはずだった (柏艪舎ネプチューンノンフィクションシリーズ)

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