トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその110・しんくわ

 しんくわは1973年生まれ。2004年に「卓球短歌カットマン」で第3回歌葉新人賞を受賞。「しんくわ」という名前はハンドルネームをそのままペンネームとしたものである。
 歌葉新人賞はオンライン上で公開選考を行うということを特色としていた賞で、「卓球短歌カットマン」という作品はもともと選考委員の一人である加藤治郎しか候補に入れていなかったにもかかわらず、公開選考のなかで醸成された空気により次第に支持率が高まっていき受賞に至った。斉藤斎藤や笹井宏之も輩出した賞であるが、「歌葉でなくては世にでることができなかった」だろう点ではこのしんくわが最も歌葉の申し子だろう。

  てのひらに落ちてくる星の感触にかなり似てない投げ上げサーブだ
  消化器の威力をためすなんてこと部室の中ではやめろよ岩野
  身の中にマブチモーターを仕込んでるとしか思えぬ奴の素振りだ
  卓球部女子の平均身長が男子より高いのは反則だ
  あの子は僕がロングドライブを決めたとき 必ず見てない 誓ってもいい
  じゃがたらのことばかり話す先輩の前髪が目に刺さりそうである
  元卓球部 現生徒会長木戸健太が毎日部室に来るので困る
 「卓球短歌カットマン」は中学卓球部の絶妙にへなちょこでかっこ悪い日常を描いたものだ。戯画化された青春の情けなさゆえのきらめきが見事に切り取られている。「じゃがたら」や岡村靖幸からの引用など、作者自身が過ごした80年代の空気感が背景にあるのだろう。もちろんこうした世界観は漫画などでとっくに表現されつくされたことでもあり、それを短歌で表現したからといって斬新とはいえない。この作品のすごいところは、べたついた抒情を回避することで短歌に対して批評的な側面を有していることだ。
 「かなり似てない投げ上げサーブだ」などのように末尾を「だ」で締める歌が多い。それによって字余りになってしまうこともあるだけに、これは意図的に入れたものということになる。そして字余りであっても「だ」を入れたほうが遥かにいい歌になる。これは体言止めによって生じる余韻を断ち切りたいためだろう。青春の回顧やノスタルジアによって生まれる抒情というのを徹底的に回避する。いつまでも終わらないリアルタイムのかっこ悪さを保持していきたいと願っている。余韻を響かせた瞬間に日常が思い出と化してしまうことを恐れているから、余韻を残したくない。この「だ」という終助詞ひとつにそこまでの思いが込められている。

  真っ白な東京タワーの夢をみた 今年は寒くなればいいのに
  ゼッケンの裏に果実の匂いする グレープフルーツ密売グループ
  ぬばたまの夜のプールの水中で靴下を脱ぐ 童貞だった
  カンフーアタック 体育館シューズは屋根にひっかかったまま 九月
  曇天の海へと向かう汽車に乗り副キャプテンの儀式を終える
  我々は並んで帰る (エロ本の立ち読みであれ五人並んでだ)
  紫陽花に囲まれながら僕たちは給食を待つくらいしか取柄がない
 こうしたわずかな余韻と抒情を残す歌にも、情けないけど輝かしい日常が終わっていくことへの恐れが表現されている。最後の歌のみ「卓球短歌カットマン」からではなくその後の発表作品からであるが、愚かであることの輝かしさを現在進行形で追いかけ続けることが、しんくわにとっての重要なテーマとして一貫しているのだろう。

  空を飛ぶペリカンたちと自転車の後ろに乗せたペンギン南へ
  とらんぽりんがむかついている夜でした。かわるがわるに跳ねるペンギン
  輪になったペンギンたちの真ん中に産まれたばかりの小さな恐竜
  僕はもう火星に帰る。無愛想なペンギン。クジラ。三毛猫ばかりだ
  きらきらと光る凶器を魚だと言い張ってます。覆面ペンギン
  三日三晩ペンギンたちと戦った手長足長村長の妻
  黒い駅。黒い雨傘。黒大豆。ペンギンたちの葬儀がはじまる
 これらは「卓球短歌カットマン」の前年、2003年の題詠マラソンに投稿された歌である。すべての歌にペンギンを詠み込むという荒業を用いており、コミカルで幻想的なイメージの飛躍が非常に面白い。「輝かしい愚かさ」というテーマを掲げつつも、しんくわが短歌をつくる手付きは細やかに計算されていてサービス精神に満ちている。現在のところ歌集は未刊行であるが、一度まとめて読んでみたいと思わせる歌人である。