トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその42・森本平

 森本平は1964年生まれ。國學院大學文学部文学科卒業、同大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。1978年「醍醐」に入会し、母である槇弥生子に師事。1995年「砦」創刊に参加。2001年「『戦争と虐殺』後の現代短歌」で第19回現代短歌評論賞を受賞した。祖父は歌人・万葉学者の森本治吉であり、歌の家系の生まれである。
 短歌をやる人間というのは往々にして線の細い文化系であることが多いが、家族が歌人ばかりという家庭に育った人間の中にはときたま異端児が現れる。佐佐木幸綱もそうであるが、森本も既存の短歌を挑発しようとする「問題歌人」である。

  まごころを君に 夕暮れちぎれ雲あきびんの中そらを集めて

  手を伸ばせども指の透き間をすり抜けるあの夏色の空を忘れず

  ルサンチマンのかわりに夜空へ放ちやるぼくらのように美しい蛾を

  ぼくは君を〈冬〉と名付けた 君はぼくを〈泥〉と名付けた ハレルヤ!

  醒めた夜のべーぜ おそらくぼく達はちやいむのやうに消えていくんだ

 これらはいずれも抒情的でセンチメンタルな歌である。こういった従来の抒情のコードに乗っかった歌も詠める一方で、その抒情はやがて「汚いもの」「弱いもの」「嫌われがちなもの」への同情と共感といったものに流れていくのである。

  俺の弱さ、君の優しさ 能うならゴキブリみたくつやめきたくて

  蛇娘のあいちゃん還れ もう一度麻の花咲く村にするから

  テーブルの花瓶のはなを今日は変え認めてごらん君の弱さを

  ぼくはぼくであることを恥じ朝毎に亀の子だわしで顔を磨けり

  職のない三十路がコーラを飲んでいる世界と俺では世界が悪い

  ぼくは天使、ぼくが正しい 弦の切れたヴァイオリンより美しく歌

  たぶんたぶんぼくなら屑でやがて降る雨の予感にとまどうばかり

  ぼくは鴉、君を見ている 飛び立てぬ飛び立つ気のなき翼を曲げて

 「綺麗は汚い、汚いは綺麗」のような価値観の転倒をもくろむ背景にはルサンチマンがある。「セレクション歌人 森本平集」の自筆略歴には第三歌集「モラル」を刊行したとき「『こんなものは歌じゃない』『おまえなど歌をやめろ』から『草葉の陰で祖父が泣いてるぞ』まで、暖かい励ましのお手紙を多数頂戴した。」という記述がある。真偽のほどはともかく、森本の胸には自らの「家系」「血」をめぐるコンプレックスが強く渦巻いていることが示唆されている。また、第二歌集「橋を渡る」についても、「ちなみに、この歌集を出した後、『お前の才能ではこのレベル止まりだから、もう歌をやめろ』と槇氏から説教された(やめなかったが)。」と記されている。槇氏とは師であり実母の槇弥生子のことである。このように、森本はしばしば実母を「槇弥生子氏」と他人行儀に名を記しては批判したりしている。身内の情と論の世界をきっちり切り分けているのかもしれないが、少し変わった人という印象は残る。「家族ですら自分を認めてくれない」という思いがこういった作風を形作っているのかもしれない。
 「セレクション歌人」に収録されている書き下ろし歌集「ハードラック」は、連作の構成意識という点でかなりエポックメーキングな性格をもつ。「1 一九八一年」では「主人公」(17歳だが、中二病丸出し)、「主人公の担任」(レイプ常習犯という裏の顔を持つ)、「主人公の友人」(全編カタカナ書きで読みにくい)それぞれの立場から短歌が作られている。「2 一九九一年」は非常勤講師となった10年後の主人公と、「主人公の恋人」(子供を虐待している)、「主人公の恋人の子供」の三部立てからなる。「主人公の恋人の子供」の項はただの悲鳴でありもはや短歌にはなっていない。そして「3」が現在なのだが、収録順は3→1→2→3となっており時系列がばらばらである。こういった「時間」と「主体」をバラバラに切り刻む連作意識には、ポストモダン文学の影響が色濃いのだろう。高橋源一郎に近いものも感じさせる。

  必死にテストを埋めてる奴ら宇宙から見たらこいつら無だ無だ無だ無だ

  ひとりごとがかすかに聞こえ「ヤリ過ぎて腰が痛い?」だ ブスがよく言う

  死んでも火葬じゃ蛆の餌にもなりゃしない流した精子の量が人生

  皮カムリ教師ハ実はれいぷ犯(削除)ノ血筋ト電波ニ教ワル

  嫌われているわけではなくて何もかも俺をすり抜けゆくだけのこと

  もうすべてけっこうですとのどかさにあくびしたまま死んでいきたい

  ホチキスで今日と明日を繋ぎとめ涙ぐましく笑うのでした

 〈私〉性を重視する現代短歌では、こういったキャラクター性を前面に押し出した連作はあまり好まれないのだろう。しかしそれぞれの登場人物がはっきりと森本自身の分身であることが伝わってくるという点でこの連作は強烈に一人称的であると思える。幼児虐待という「家族の物語」が連鎖して繰り返されていくところから、森本が「家族」に対して強い関心を抱いており、作歌の根底に据えていることが透けて見える。
 しかし私が森本の短歌でストーリーテラーとしての能力以上に評価したいのは、絶対に口語でしか表現できないような種類の抒情と悲哀が現代に存在することをしっかりと捉えていることである。「涙ぐましく笑うのでした」というような自嘲と自己劇化は、文語ではとても再現できないように思える。口語ならできて、文語ではできないこと。口語短歌のさらなる可能性の拡大のためにはそれをしっかりと把握することが不可欠である。その答えの一端を、森本は掴んでいるように思う。