トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその200・荻原裕幸(2)

 第3歌集「あるまじろん」における荻原裕幸の展開を見ていこう。前書きの「ウッドストックの憂鬱」は「ウッドストックがこの街にゐてくれたらとても楽しいだらう。」という一文から始まる。スヌーピーでおなじみのウッドストックのことである。反実仮想としての「楽しいだらう」は、どんなに過剰があっても決して満たされることのない時代の空気感の反映だった。

  深夜三時のトイレの中にもあらはれるマルクスくんの幽霊たちが


  ライナスの毛布が出ない辞書なんて辞書ぢやないつて何のことだい


  プテラノドンが例へば第二象限に棲むなら街も楽しいだらう


  鳩小舎に帰らぬ一羽とほき日にそれを愛した(∴他を殺した)


  何でさう聞きたがるんだ率直に言ふならばまあ(→∞)こんな感じだ


  サラダ食べつつ脈絡もなく思ひをり(蝉の葬式×オカリナ)

 スヌーピーをはじめとするアメリカのカートゥーンからの引用(それは当時としては十分すぎるほどサブカルチャーである)と、数学記号を使用したシュールな表現。この二つは、「詠むモチーフを拡張する」「詠む方法を拡張する」両者の役割を担っている。これらの表現は悪ふざけでも奇をてらったものでもない。短歌の可能性を広げるための大真面目な実験だった。

  ぽぽぽぽぽぽと生きぽぽと人が死ぬ街がだんだんポポポポニアに


  月曜日の朝かへり来て酩酊にノブのQOQOQQOQQOQ

  
  恋人と棲むよろこびもかなしみもぽぽぽぽぽぽとしか思はれず


  地球儀のなかがからつぽなることを思ひぽぽぽと水、木曜日


  ぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽと生活すポポポポニアの王侯われは

 連作「ポポポポニアにご用心」のこれらの歌となると、もはや日本語の意味性そのものを解体にかかっている。「ぽぽぽぽぽぽ」に何らの意味は付与されておらず、読者の経験や感情などからどうとても自由にかたちを変える。完全な無意味なんて存在しなくて、あるのはすべて自由に可変する意味だけなのである。

  空爆のけはひあらざるあをぞらのどこまでもあをばかりのひとひ


  戦争で抒情する莫迦がいつぱいゐてわれもそのひとりのニホンジン


  この街には大気がない!と叫んでも誰も窒息しないゆふぐれ


  世界の縁にゐる退屈を思ふなら「耳栓」を取れ!▼▼▼▼▼BOMB!


  ▼▼雨カ▼▼コレ▼▼▼何ダコレ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼BOMB!

 
  ▼▼▼▼▼ココガ戦場?▼▼▼▼▼抗議シテヤル▼▼▼▼▼BOMB!


  ▼▼▼街▼▼▼街▼▼▼▼▼街?▼▼▼▼▼▼▼街!▼▼▼BOMB!


  ▼▼▼▼▼最後ニ何カ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼BOMB!

 そして問題作として話題となった「日本空爆 1991」である。湾岸戦争とそれに付随する情報統制の時代への批判精神の込められたこの一連は、落下する爆弾をイメージしたと思われる▼の記号が連打され、音として発音できないものになっている(ちなみに私はこの▼▼▼▼▼を黙読するとき「DADADADADA…」と読んでいる)。字数をきっちりと揃えているところもポイントだ。▼が降り始めてから日本語の文字部分はどんどん削られていき、最後にはほとんど▼で埋め尽くされる。短歌の可能性を広げるために「モチーフ」「方法」「意味」を拡張を実践してきた荻原がついに主張したことは、言葉そのものを圧殺するおそれのある現実が目の前に忍び寄っていることへの危機感だったのである。
 次回は第4歌集「世紀末くん!」での、新たな抒情性への展開を見ていくことにする。