トナカイ語研究日誌

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管啓次郎「コロンブスの犬」

 比較文学者であり詩人でもある管啓次郎(すが・けいじろう)の、随筆家としてのデビュー作である。1989年に弘文堂より単行本化されたが、ここ数年で作家として大きく名を上げ、21年の時を経て河出文庫より文庫化された。
 この本はブラジル旅行記である。滞在時期は1984年の1年間であり、著者は20代なかばの頃ということになる。今の僕より少し若いくらいの年齢だ。読んでいてまず印象にのこるのは文章の清新さである。「ぼく」という一人称で語られる翻訳調の文体。それが南米の澄んだ空気感とマッチしている。少なくとも日本の多湿気候からは程遠い文体だ。比較文学者である著者はものすごくたくさんの外国語ができるらしく、ざっと調べただけでも英語、フランス語、スペイン語の翻訳がある。ポルトガル語もたぶんできるのだろう。
 ブラジルに滞在していた1年間、著者は本当に何もしていない。ただぶらぶらしながら歩き回り、ひたすら思索にふけっていただけである。しかしその思索は、世界とは何か、民族とは何かという示唆に満ちている。起伏の少ない日常に潜んでいる意識のゆらぎが、暑い日に吹き抜けるそよ風のような文体をもって繊細に表現される。自分の足でてくてく歩いているという実感が、この思想とは深く結びついている。管啓次郎が追い求める思想はどこまでも「歩行者の哲学」である。彼の本は歩くスピードを意識しながら、アンダンテで読むのがよく似合う。休日の朝、散歩に出かけたあとにコーヒーを飲みながら読むのが一番いいかもしれない。
 ところで著者がブラジルをぶらぶらと旅していた年齢の頃、僕は職がなくアルバイトにもなかなか受からず、他人との付き合いもめっきりなくなってひたすら図書館に通って歌集や歌書を読みあさっていた。いつもいつも「このままでは終われない」と思いながら悶々としていた。それはそれで貴重な時期だったが、自分も見知らぬ土地を自らの足で歩き回るリアリティを持っていたら、どう変わっていただろうかと思う。失われた身体感覚を今更にでも取り戻すために、石狩川沿いを歩いてみようか。

コロンブスの犬 (河出文庫)

コロンブスの犬 (河出文庫)