トナカイ語研究日誌

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一穂ノート・21

 エッセイ「海の思想」に綴られている一穂の少年期の回想である。津軽海峡に真向かう小さな漁村に彼は暮らしていた。

小さな村で、殆どが萱葺の軒並であつた。漁業といふ集団作業の必要から、この古い館はマクベスの砦のごとく大家族を擁してゐた。若くして家督を継けた父は一族の支配者であつたが、私にとつて叔父や叔母、従兄弟たち、大勢の婢僕の上に、専制的で厳格な祖母の実権が雷のやうであつた。

 漁家という、ある種前近代的な家族主義社会が一穂を育んだ。祖母や父の家系は身体強健で激情型の性格であり、一穂は母の繊細な体質と神経を受け継いでいると自認していた。一穂の母親は函館の出身であり、「この活気あるエキゾティックな近代港市と親しむ機が多かつた。」とも綴っている。父=前近代的ムラ社会、母=近代的な都市社会という対立軸が一穂のなかに生まれつつあった。

未知の彼方に向つて錨をあげる海の思想は、この時、私の生涯を決定した。《船乗にならう!》と。

 少年一穂が抱いた将来の夢は船乗りだった。歯痛や近眼、数学が苦手であったことを原因として挫折することになるのだが、小さな村を飛び出して大海へ出てゆくことへの憧れが一穂の少年期を創り上げた。この船乗りという夢は、「父」によって圧殺されることは特になかった。漁師である父は息子が船を学ぶことに抵抗はしなかった。後に一穂が東京の海城中学校に進学することを許したのも、校名だけで船乗りの学校と思い込んだからであるという。

鰊漁場の網元といふものは土地の有力者であり、商人も官吏も、徳川時代から海の前衛(フロンティア)の踪に従つてきた潜在心の習ひで一目置き、職業的な差別意識があつた。

 日露戦争の状況下、一穂の就学を機に吉田家は古平へ移った。もともと春季のみ出漁していた地域であったが、いい漁場だと考えたのか移住したようである。祖母のみが上磯に残り古い家を守った。積丹半島の厳しい気候を綴った筆致は凄まじいものがある。この頃が漁家としての吉田家がもっとも豊かだった時期といえるようで、一穂少年に対する教育は熱心であったらしい。しかしやがて、一穂の中には漁家を継ぐことへの諦めが生まれるようになる。(続)