トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその123・生沼義朗

 生沼義朗(おいぬま・よしあき)は1975年生まれ。日本大学芸術学部卒業。1994年に「短歌人」に入会し、蒔田さくら子の選歌を受けた。2002年に第1歌集「水は襤褸に」を刊行して第9回日本歌人クラブ新人賞を受賞。2005年より歌誌[sai]にも参加している。
 生沼の短歌を読んでいて感じるのは「美学の歪み」である。耽美的な歌もあればスタイリッシュな都市詠もあり、はたまたギャグのような歌もある。おそらく生沼は一つの統制のとれた世界観を築き上げることに美学を感じるのではなく、歪みのかかったさまざまな要素が複雑に絡みあっている世界を志向しているのだろう。

  ペリカンの死を見届ける予感して水禽園にひとり来ていつ
  天空ゆ鎖が垂れているような五月の界にわれは暮らしぬ
  黒ずんでゆく巴旦杏 異族には異族としての午餐がありて
  冬の陽に照らされている欄干を救いのごとくおもうことあり
  おお、朱夏よ 光の槍の穂先にてこの肉体を射抜いてみよ
  ほとばしる水のちからに耐えかねてシャワーのノズルはのたうちまわる
  鉄塔が天を突き刺す ほどなくに滴り落ちる春先の水
 これらの歌には日常の奥にある異界をしっかりと見つめようという意識が現れているように思う。その世界観には独特の暗鬱さがある。生沼が描こうとするのはきらびやかな「幻想」ではなく、世界の裂け目で人間を呑み込もうとする「非日常」なのだろう。

  いっせいに量販店のモニターに映るはマルチナ・ヒンギスの顔
  自転車の銀の車体にこびりつく昼のひかりは泡のごとしも
  東京から地方に移行することのさなかに浮間舟渡駅あり
  青葉闇の時間のなかに入るときメタセコイアの下に鳩、鳩
  「回春」の字面見ていし目の端にぬれぬれとして赤い掃除機
  赤銅の色した鳩が天を飛ぶ 日暮れか夜明けか見分けがつかぬ
 都市生活者の憂鬱というのが歌全体を覆っている暗鬱さの正体かもしれない。自由のように見えて実は逃げ場がない。あらかじめ用意された無数の現実からバイキングレストランのように未来を選び取っていく。そんな生活者の姿が透けて見える。

  黒柳徹子公式ファンクラブの名をオニオンというはまことか
  中ピ連〉をネット検索せしときに「中年ピアノ愛好者連盟」が出る
  甘藍をひたすら切るより球萵苣(たまぢしゃ)をひき千切りいるほうが落ち着く
  寒小春突風するどく吹くときに思うはリリエンタールの墜死
  〈了〉という印をはやく打ってくれ、自死などというかたちではなく
  一日を普通に了えたつもりだが手には粘土の匂いがしたり
 終わりへの希求、シニカルな笑いに隠された暴力への憧れというのも重要なテーマである。「やり直せない」「逃げられない」という思いに囚われているがために、もうひとつの幻想世界を創りだすこともできない。ただ、得体のしれない日常の裂け目を冷やかに見つめるのみである。

  スタッフ用バスより万の行列を見遣りはじまる夏の異祭や
  似合わないコスプレばかり多いのは虚構に生きているからこそで
  クレームが六十件を越えしとき〈やや騒乱〉と報告書に書く
  場内の監視カメラのモニターが映すは人と雑誌の屍体置場(モルグ)
  腕章をつけてしまえば権力が生まれることを嫌う部下A
  「自宅へと帰りつくまでがコミケです」そう、遠足の延長だから
  就業時冷水で手を洗うとき指の先から躁になりゆく
 生沼はコミックマーケットのスタッフをしていた経験があるそうで、それに題をとった作品もある。しかし生沼が見つめるのは、あくまで現実から逃れられない群衆の姿である。現実から遊離した非日常空間であるはずのコミケでも否応なしに発生する「権力」という関係。秩序のために集団が個人を統制するという世界から人間はたやすく逃れられない。秩序から逃走してまた別の秩序の中に入っていくことの繰り返しが都市生活なのではないか。そんな自問自答が生沼の世界観を形成している。「権力」と「逃走」は常にセットであり、時には同一化してしまうものなのかもしれない。

現代短歌最前線新響十人

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