富小路禎子(とみのこうじ・よしこ)は1926年生まれ、2002年没。女子学習院卒業。植松寿樹に師事。1946年「沃野」創刊に参加。1954年、第1回沃野賞。1955年、第3回新歌人会賞。1992年に「泥眼」で第28回短歌研究賞を、1997年に「不穏の華」で第31回迢空賞を受賞した。
禎子は富小路子爵家二女として生まれた旧華族である。しかし戦争を境に没落した。華族の身分を失い、父は貴族院議院の座を追われた。華族の娘でありながら旅館などで働いて生計を立て、生涯独身を貫いた。没落貴族というと太宰治の『斜陽』の世界が思い浮かぶが、禎子が描く世界はデカダンの色彩に塗れたりはしていない。過度に情念的にならず、過度に雅やかにならない。女性の生き方をクールに捉えた視点が保たれている。
実を弾きこと終りたる草の莢白く薄れて野に光あり
生きるまでを籠れる弾と朽ちし吾の頭骸が或日地底に会はん
霧わけて聖祭(ミサ)にゆく吾のつつましさ蝸牛蟷螂の族のみが知る
廃品のビン積む広場月の夜は鳴り出づるごと光乱るる
隧道(トンネル)の外は一連の雪の山かかる単純の強さに遇へり
つるされてかく宙にゐる吾のさまぶらんこの上なれば誰も嗤わず
何も写さぬ一瞬などもあらんかと一枚の鏡拭きつつ怖る
一心に釘打つ吾を後より見るなかれ背は暗きのつぺらぼう
華族出身というプロフィールから想像してしまうような雅歌調ではなく、かといって写実的な作風でもない。実はかなり不思議な作風の持ち主なのである。いずれも異様なまでに自己を客観視している。他者の視線に対して非常に敏感である。「没落」の過程のなかで禎子をもっとも苦しめてきたのは何よりも他者の目だったのだろうか。過剰なくらいの自律精神が歌から見て取れる。
女にて生まざることも罪の如し秘かにものの種乾く季(とき)
生るべき稚魚のいくつをかなしめば眼ふとつむりイクラを噛みき
独身(ひとりみ)を日々に浄めてゆく願ひ夕餉に白きパンを割きつつ
幼子を常に拒める吾を待ち夜の園に静止のぶらんこが垂る
女ひとり住む部屋の内に秋くればなべての中に鏡顕(た)ちくる
未婚の吾の夫のにあらずや海に向き白き墓碑ありて薄日あたれる
張り満ちし乳房垂りたる一頭のけものの疲れ暗々と過ぐ
「没落貴族」であることと同時に、未婚であることもカルマとして背負い続ける。「鏡」というモチーフがよく登場するのは、それが自己客体化を鋭く突き付けてくる「内面」の表象だからだろう。実は禎子が意識しているのは、他者の視線の振りをした自分自身の視線なのである。反転してくる視線が、容赦なく背中の十字架を照射してくる。
自動エレベーターのボタン押す手がふと迷ふ真実ゆきたき階などあらず
一皿の烏賊食みつくし白濁の夜霧すぎたるごと忌日逝く
ある暁(あけ)に胸の玻璃戸のひびわれて少しよごれし塩こぼれきぬ
母胎より彼岸に到るここの道いましばらくの緋なる夕映
抱擁をしらざる胸の深碧(ふかみどり)ただ一連に雁(かりがね)わたる
八月の炎暑に吾を生まんとし母は一片の氷(ひ)を噛みしとぞ
線香花火の脆き火、夜空の焼夷弾、父母焼く火、昭和のあの火この火よ
普通は晩年に近付くにつれて何らかの救いや悟りを感じていくものなのかもしれないが、禎子は最後まで生に救いを見出すことはなかったように思える。生み落とされたことそのものの苦しみに満ちている歌だ。禎子の人生は相当ドラマチックで物語性にあふれたものであっただろう。しかしそのドラマ性をあえて捨てひたすら自分の体内から現れるもののみで人生を描ききってみせた。生の苦しみからの救済として短歌を選び取ったタイプの歌人ではない。まず先に短歌があり、短歌があって初めて自らの生が苦しいものであると規定できた人なのだと思う。
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