トナカイ語研究日誌

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一穂ノート・5

 一穂は1925年、27歳の8月、「萬朝報」に3回に渡って『詩壇への公開状』を執筆した。詩人・吉田一穂の立ち位置を明確にし、詩壇の混迷状況を切って捨てる短い評論である。

 一九一九年以降、多大の過誤を妊んで隠然一個の中心勢力を成し何等芸術運動としての主義主張も確乎たる信念もなく、偶々相会した雑多な詩人によつて組成された詩話会なるものが、一般に恰も詩壇の最高権威であるかの如く思惟され、且つ自らまた僭越に、代表詩人を任じて年鑑を選し、詩界の水準を昂めつゝあると誇称するに至つては、全く烏滸の沙汰である。

このような文章で始まる「公開状」は、詩壇の集団主義への痛烈な批判である。ここで槍玉に挙げられている「詩話会」とは川路柳虹が発起人となり、『日本詩集』や『日本詩人』を発行していた詩人団体の詩話会だろう。一穂が心酔していた北原白秋はじめ、室生犀星萩原朔太郎も同会に参加していた。日本の口語自由詩の確立に大きな役割を果たした団体である。しかし1921年に『現代詩人選集』の人選をめぐって内部分裂が起こった。白秋や西条八十日夏耿之介が脱退して「新詩会」を結成し、さらに若手詩人の一部も脱退して「詩人会」を結成。「詩話会」は三分されることになった。
 一穂はこの「公開状」において、「年鑑詩集」というアンソロジーを編むことへの批判を行なっている。年鑑収録作のレベルの低さを嘆くとともに、収録作が作品の質ではなく子弟関係などの個人的事情によって銓衡されていると非難している。さらに、当時新たに成立したばかりの童謡協会に対してもやはり童謡年鑑を編纂していることを批判する。

(前略)然しながら之れらの機関が、一般的に詩歌の普及に資すると云ふ点に就いて論ずるならば、そもそもポピュラルな評価に依つて、真に芸術の本質が決定されるであらうか。否々、評価は往々にして寧ろその詩人の凡俗を意味する。而して之れ等の低劣な市価は、必ずしも真の民衆芸術の本質を表明するものではない。享楽芸術の同列な水準に於いてのみ庶民の声を聴くものは、成長すべき真の民衆の欲求を知り得ないのである。向上し進展する高き目標に於いて芸術を切望するものは正しき民衆それ自身である。何となれば、詩は常に精神の最高飛躍を示すものであり、絶対に教化の方法ではあり得ない。(中略)その旨意書の蒙昧な普及といふ漠然たる言葉は、無意義の同義語に外ならない。

 ここで一穂が批判しているのは、詩話会が「年鑑詩集」を編むことにより一般大衆に詩を普及させようとしている、その啓蒙主義的な姿勢にあるようだ。一穂には「成長すべき真の民衆」への信頼があった。しかし一穂自身もまた「ポピュラルな評価」を低いものとみなし、そこに芸術の本質はなく向上を切望する「正しき民衆」に向けてのみ詩を書いていくことをこの論考をもって宣言した。詩話会の啓蒙主義には、大衆蔑視への無自覚さが表出している。そこを一穂は指弾した。
 詩話会は「公開状」が発表された翌年に解散したが、1928年には「詩人協会」が設立された。その第1回設立総会に出席した一穂は「詩人がアカデミイだとか養老組合のようなものを作る必要はない、詩人はあくまでも一個の独立した存在であり、自由でなければならない」と主張して総会を流会にさせてしまったという。「養老組合」は『詩壇への公開状』にも登場する語彙であり、どうやら一穂が一番嫌っていたもののようだ。群れることを拒否する一穂の姿勢がよくあらわれたエピソードである。