糸田ともよ(いとだ・ともよ)は1960年生まれ。札幌市在住で、1986年より永井浩に現代詩を学んだ。のちに「鳩よ!」に短歌を投稿するようになり、選者だった福島泰樹のすすめで1992年に「月光」に入会した。第1歌集「水の列車」は2002年に刊行され、第17回北海道新聞短歌賞佳作となった。
糸田の短歌は現代詩を出自に持つことがよくわかる、象徴化とメタファー処理の巧みな歌風だ。とりわけ歌集の題にもあらわれているような「水」へのこだわりが印象的である。
恋は水の階段をのぼり縋る詩もひかりのふちも鍵のつめたさ
欄干も水の列車となり走るどこを切っても血を噴く詩のごと
仮面の色 雨に滴るまま覗くねむりぐすりを捨てたみずうみ
立棺のエレベーターに眼を閉じて花茎をのぼる雨水のこころ
虹を曳く幼魚のうろこは精密に重なる死者の瞼の韻(ひび)き
「みず」と呼べば水黙りこむ一瞬をはにかむようにすりぬける夏
くるしげに花浮沈するだくりゅうの瞳を逃れるすべも知らずに
糸田の歌う水のイメージは、そのまま死のイメージに直結している。深い水底へと沈んでいくような暗く静謐なイメージ。その青にまみれた世界観は、後書きにあるように札幌の「川」が原風景になっているのだろう。また「魚」というイメージも多い。水中を軽やかに泳ぐのではなく、むしろ溺れているようにさえ思える「魚」の描き方は、もがいて生きようとする作者の自己像を反映しているのかもしれない。
受話器の声しばし途切れて 雪の音 あるいは翼を片づける音
ふあん 黙りこむふかみどりの淵へ雪のからだで降りていくこと
双手さしのべ雪の骸に濡れながら情はやさしく唾棄されながら
亡骸は雪人形のねむる舟 風は絹の音 幻灯にじむ帆
祝うべき枯渇? ことばも雪のように肌に触れると死ぬのね、こねこ
雪のこねこ小さな氷の爪立ててつかのま目尻につかまっていた
札幌という土地柄もあってか、雪の歌、冬の歌も多い。しかも雪を「亡骸」と捉える歌が目立つ。死を沈め飲み込んでいく「水」と、触れれば溶けて消えてしまう「雪」との対比がそこでなされている。同様に死を内包していても、一方は永遠を、一方は刹那を象徴する。
泣き足りぬ魂この身に投げ込まれ海成(な)し揺れるわたしを嘔くまで
目覚めれば真上に真冬の湖面あり凍る気泡に保留の生命
この星の炸裂よりも胎に棲むひとり児おそれる風花のなか
宵宵にさしのべられる睡魔の腕はやわらかだったり骸骨だったり
闇ふかく哭く魂をひとつかみ盗んだ記憶に絡むへそのお
なかよしのたましいよりそいやわらかいねん土のおはかをつくる子のゆび
歌集の解説は菱川善夫。カルチャーセンターで糸田を教えたそうで、福島泰樹と並ぶもう一人の師にあたる人物ということになる。菱川は「胎内懐疑」という章にあふれている妊娠への違和感と「産む性」であることへの抵抗に注目している。その手がかりとしてエッセイにて綴られた糸田が胎児だった頃に起こった事件によるトラウマを紹介している。
水のイメージを羊水につなげるだけならいくらでも類例がある。糸田の特徴は、濁流に呑まれ流されていくイメージと、ぬくもりに触れれば溶けてしまう雪のイメージがつねに付きまとっていることだろう。そしてそれが逆説的に人間の肌のぬくもりのイメージにまで及んでいく。糸田は単なる北の郷土歌人ではない。メタファーとしての「北」を徹底的に表現し尽くそうとしている歌人だろう。