トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその103・紺野万里

 紺野万里は1947年生まれ。福井大学卒業、名古屋大学大学院修士課程修了。「未来」所属。近藤芳美に師事。2000年、「冥王に逢ふ―返歌」で第43回短歌研究新人賞受賞。2008年、「星状六花」で第34回現代歌人集会賞受賞。「過飽和・あを」「星状六花」の二つの歌集がある。
 福井県在住で、英語の講師をしながら歌人活動を行っている。近藤芳美門下らしく社会派の作風であり、短歌の主題は原発である。被爆した父親を持つ被爆二世でありながら「原発銀座」である福井県で暮らしているというジレンマが作品の根本を形作っている。受賞作「冥王に逢ふ―返歌」とはもともと岡井隆の作品を受けて書かれたもので、冥王とはすなわちプルート=プルトニウムのことである。  
  新しきものは海より 高麗船の五色の幟そして原子炉
  蒼きあをき過飽和である 目を伏せてひそやかに呑むひとつの言葉

  右端のエレベーターが点滅す残り七基の居場所を伏せて

  この先に原発四基 客乗せぬバス連なりて海光をゆく

  戦争しか知らない子供のゐる国の上空をゆくイヤホーンをして

  みどり濃き山のあなたにひつそりと普賢はおはす廃炉となりて

  東京の電気は止まつたのだらうか刈羽原発うごかぬ夏

 原発に対する複雑な感情が執拗に描かれ続ける。それははっきりと告発なのであるが、しかし苦悩の果てに口をついたようなくぐもった様子もぬぐい切れずにいる。外から原発を批判することはたやすいが、リスクと恩恵を同時に引き受けて福井の地に住んでいるという思いそのものが、紺野にとって限りなく罪の意識へと近づいているのだろう。

  さくらばな下照る小径はなびらを浴びてたまゆらヒト紀といふを

  見上げたる化石の壁のなまなまと日本海いまだ無き日のやうに
  手のひらに受ける化石のしずもりよユラ紀の未来といふを預かる
  窓辺なる朝の椅子に読みすすむミトコンドリア・イヴその七女

  見つめあふしまらくを鹿とヒトでなく大地溝帯の二匹のやうに

  二万年先に生まれるはずの子等そのこゑを消し今宵を灯す

 「歴史」というのも重要なテーマとして歌われている。「ヒト紀」「二万年先」など非常に長いスパンで歴史を捉えた歌が目立つ。これもまた「核」への意識からくるものだろう。放射能は、表面的にはなくなったように見えても本当に消滅するまではとてつもなく長い時間がかかるものらしい。たとえ長い長い時間がたとうとも、人間が生み出したものは残る。そして間違いなく残り続けるもののひとつが目には見えない放射線なのだという静かな告発がこの過剰なまでにスケールの大きな歴史意識にあらわれているのだろう。
 「光」を歌い続けるのもまた放射能に対する意識のあらわれだろう。

  あはあはと光を運ぶ春の雪 青馬ひとつ画より逃げゆく

  わたくしが死ぬまで運ぶ卵たちよすこし光がとどいてゐますか
  音すべて吸ひこみていまみづうみは欄外のごとき光を帯びる
  みどり児のあしたの夢に降りをらむ星状六花この世のひかり

  川沿ひを見えかくれして単線は九頭竜川の背骨 きらめく

  師と呼びて仰ぎゐし日々その十年余りと数へひかりを数ふ
  くろぐろと川は息づく日の終わり光の皮を脱ぎ捨てたれば
 かつて多くの命を奪った死の光、自然を大きく包んでいる生の光、そしてかつて死の光となったものを利用して人々の生を支え続けている光。光への敏感さは核という問題意識からきたものだろうが、やがてあらゆる光が混交していき世界そのものを形作っていく。つまるところ紺野が主題にしているのは決して原発批判ではない。父の被爆と福井に住む自分という対立のなかで引き裂かれていく自己の意識である。「光」はそのなかに死も生も内包する。しかし分裂していく苦悩を救済してくれるのもまた光なのだろう。歴史と地理とを引き受けながら懸命に格闘する戦後生まれの日本人の姿が、福井在住のひとりの歌人に象徴されているように思える。