トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその90・田中佳宏

 田中佳宏は1943年生まれで、2008年に病没している。放射線技師を経て故郷の埼玉県妻沼で農業を継ぎ、「新日本歌人」や「個性」などに参加した。
 1971年に出された第1歌集「黙って墓場へ降りてゆくわけにいかない」はその大胆なタイトルが印象的である。加藤克巳の影響のもとに、60年安保から70年安保にかけての時代が描かれている。

  午 われは土に垂直 闇われは土に平行 はげしき思想持てぬかな

  戦慄を踊り了えたるスカートの 花萎れゆく時の 音楽

  F一〇五D爆音に屈み摘む 花の旋律の日本のこと

  革命家 壁にひとすじの傷つくり百すじの掌の傷と眠れよ

  画布に触れ曲がる筆先の 機動隊に把まれし少年の頸の 悦び

  奪うべき唇ばかり視つめる 直線は逃走に喘ぐ者らの軌跡

  ああ俺が触れえし自由と カブト虫が角に識りうるいくばくの宙

  誰にいう理由 誰が知る理由 その理由を汝の唇におしつけ 帰る

  青年の怒りと真夜中の鉄柱と ひしひしと支えあうものをみつ

  ああ可能 無数の可能泳がせて可能のうしろに舌だして喘ぐ

  詰めこまれまた体制に還りきしコカコーラ怒りの泡しずまらず

  秋は 一点のうしろすがたに低唱の群昏れさせる仮面の指揮者
 字面をぶつ切りにしていながら決して韻律は切れさせない字空け。これは加藤克巳の影響であろう。ハードボイルドな雰囲気も漂い、かっこいい歌である。「コカコーラ」はアメリカの象徴。早熟で若いころから安保運動に興味を抱いていた少年が青年になっていくまでの時間。それが自在な喩によって表現されている。相聞歌の熱気も印象的である。 
  どん百姓田中佳宏、自然より掠めとりせっせとじゃがいも運ぶ

  主(あるじ)なき労働にして飽きるまで鼻糞ほじる鍬に凭れて

  土により喰う身はかなしふてぶてし畑の石ころひろっています
  カボチャひとつ胸に抱きとり世のなかのいずくにか向ける微笑みをなす

  風ばかり通ると見るにまたひとり風に吹かれてひと過ぎてゆく

  買いきたる大根と貰いたる大根を並べ貰いたる大根悪(わろ)し

  かなしいではないか地べたに百姓でいるかぎり生涯鼻唄まじり

 しかし1983年に出た歌集「天然の粒」では、農業に転身したという自身の経緯から歌柄が大きく変わる。「百姓」という言葉で自らを規定し、大きなアイデンティティに据えた。そして「土に生きる労働者」という自己劇化を進めていった。田中の示す「百姓」像は、主を持たず自由に見えるが、実のところは未来への希望を抱かずに毎日を過ごしていくという姿として浮かび上がっている。世捨て人の自由気ままさではない。むしろ大地に縛り付けられた悲しい人間として自嘲気味に登場する。
 第1歌集は「青春歌のかがやき 第一歌集の世界」というアンソロジーに抄録がおさめられているが、その本では田中の歌集をこう評している。「作品の『完成』に対して無欲なのだ。無記名のなぐり書きがもつ、得体のしれないエネルギーを感じさせるのである」。「百姓」への転身もまた「未完」への挑戦なのかもしれない。季節が巡ればまた同じことを繰り返し、永遠の回帰運動を続けていく「百姓」という生。そこに託したものの大きさを感じ取るとき、田中の歌が経た作風の変化の意味をつかめるように思えるのである。