塩野朱夏は2004年に第1歌集「そして彼女は眼をひらいた」を刊行している歌人であるが、歌集にはいっさいの個人情報が書かれていないため、性別も年齢も歌歴もいっさいわからない。歌集冒頭に「登場人物」としてジキル博士やハイド夫人といった名前があらわれ、「不可解な死を遂げた夫妻の遺品から見つかった手帖と手稿を原文のまま順次掲載する。」という設定で書かれているユニークさである。帯文は塚本邦雄が寄せている。
個人情報を明かさないことと、歌集のこのメタ・フィクション的な試みからもわかるとおり、自己の内部に綿密な世界観を構築することへの志向がかなり強いようである。
まぼろしに掬(く)む死海の水ゆうべのあやまちに汚れし膝あらうため
合歓(ねむ)りっ娘、睫毛の奥の目鏡に脅えきったるわたしの顔が
鎮静剤服まされ海底ゆらゆれて手術室への船酔いの行(ぎょう)
手術後後遺症気づかう医師にジョコンダ夫人の石胎の微笑にて応える
人間に雌雄のありて秤られている塵灰(あくた)の嵩とか肋骨の数とか
この国に仔羊二頭飼われいて出自知りたく螺旋の角振る
「あたしドーリィ」濃(こき)色の夜の羊の一匹が不眠の柵を喰いやぶって
異世界的でぞくぞくするような表現が多数描かれる。絵画的であり、シュールリアリズムの影響を感じる。しかし歌集を通して読むと入院や心療内科の通院がテーマとしてところどころに描かれていて、ひょっとしてこれはわずかにのぞく作者自身のリアルなのではないかと思わせる。もちろん、それがさらに幻惑するための周到な計算の可能性もある。読者を自在に惑わす世界の重層性は、短歌としてはかなり野心的な試みである。
蝶のよう夏休みに捩じ止めされた標本箱のこどもとわたし
割礼、纏足、トゥシューズ、少女を苛むもののひびき晶(すず)しき
両の手で娘(こ)は耳ふさぎそれをしも毎晩きかす童話『ピノッキオ』
爪を噛む悪癖の娘の指縛る十二月へ開いたままのピアノ教則本
回転(コーヒー)カップに置き去りにした、わたしにひとり子いたかもしれぬ
子とふたり絶滅動物種かぞえて遊ぶ夕ぞらのあかさ熱を持たざる
歌集のなかにはしばしば「こども」「娘」が登場する。そしてそれはつねに「縛られた」存在としてあらわれる。作中の登場人物であるジキル博士とハイド夫人の娘という設定なのだろう。しかし、いたかもしれずいなかったかもしれない「ひとり子」は、作者自身の過去の姿を断片的に浮かび上がらせているのかもしれない。このねじれた郷愁の感覚は、なぜか濃厚に日本的なものを抱えている。
かすかなる火の匂いして積もる雪わたしと雪の境界劇(はげ)しく
あけがたの両性具有の夢羞じて枕をかえす真白き骸(むくろ)を
とおき空に断食月の月盈てりわれはわれの他なる生を知らず
あまの川あやとり遊ぼ星宿のひとつ滅ぶを待つたまゆら
無花果のみのらぬ花を見ていたりレム睡眠の荒れ野の果てに
「思い出せおまえの顔を」そは蘇る黴(かび)が菌糸を伸ばす音す
「境界」や「対置するもの」にこだわる傾向がある。これは歌集通してのテーマであり、分裂していくものをつなぎとめるものは何かという問いかけになっている。ジキルとハイドは言うまでもなく二重人格者の代名詞であるが、どんな人間も内部に多面性を持っており分裂をしているという意識から〈私〉の自然さを自明のものとしがちな短歌の詩形に「境界」という意識を持ち込んだのだろう。歌集はそうそう簡単に出せるものではないため一冊に自分のすべてをこめた集大成的なものになってしまいがちである。そんななかにおいてこうした主題意識の高い構築的な歌集は、それだけで非常に面白く読み応えのある仕上がりとなっている。