トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその78・筑波杏明

 筑波杏明は1924年生まれ。立正大学文学部卒業。1947年に警察官となり、翌年窪田章一郎主宰の「まひる野」に入会した。1961年、第1歌集「海と手錠」を刊行。その他「時報鳴る街」「Q」という歌集がある。筑波の名を高めたのは「海と手錠」所収のこの一首である。

  われは一人の死の意味にながく苦しまむ六月一五日の警官として

 「六月一五日」とは1960年6月15日の安保闘争で東大生の樺美智子が死亡した日のことである。つまり「一人」とは樺美智子のことだ。筑波はこのとき、デモ隊を鎮圧する機動隊の側にいた。警官である以上秩序の保持につとめるのは仕方のないことであるし、一警官に罪が問われるわけもない。しかし筑波は、権力の名のもとに一人の人間の命を奪ったことを心底悔やんでいた。その思想のもとに出された第1歌集は警察内部で問題視され、歌集刊行年の十二月に筑波は警官を退職した。
 筑波の歌は秩序を護持する警官の側から昭和20〜30年代の日本を見据えた作風が特徴である。

  スクラムを隔てて対ふいまに聞く立場異なる憎しみのこゑ

  うちに潜むひとりの嘆き鎧ひつつ迫りゆく若きスクラムの中

  鉄かぶとのひさしに涙かくしつつ崩さねばならぬスクラムにたつ

  ふるさとのわが母ほどの老いが組むスクラムなればわれはたぢろぐ

  海を背に帰る二人をつなぎゐる手錠の鍵が揺れて鳴りをり

  明らかに戦後を負ひて秩序なく四方に広き街なかに立つ

  足投げて昼の芝生に憩へるは思念絶たれし労働の貌

 安保や基地闘争のあった時代に、デモ隊のスクラムに突入していく警官の逡巡を鋭く描き、また戦後の日本を描く。こういう警官がいたということ自体がひとつの奇跡であるが、それが文学として結実したのは短歌という詩形の大衆性ゆえかもしれない。  
  思想たがふゆゑに辞めよと迫るこゑ辞められぬわれが堪へて聞きゐつ

  妻あれば子あれば職を退かぬこと哀願に似てわれの迫りつ

  おどおどと立ち惑ふ妻冷然と職追はれたるわれは見てゐつ

  知恵溜めて生きよと人の告げくれど五月は血潮さはだつばかり

  敗北の思ひ惨めに掌に受くる辞令は生きてわれにもの言ふ

  去る者の怯懦はわれも疑はず雲流れゆく丘の給水塔

  敗けてゆく父なるわれの内部見え立ち上がるときわれはめくらむ
  突きつめておのれに還る聲を聴くある夜ひとりのわが無言劇(モノローグ)

 警官の身でありながらデモ隊に同情を寄せたゆえに立場があやうくなり、退職を迫られる。その後は「まひる野」も退会ししばらく歌の世界を離れていたという。退職の顛末が描かれた第2歌集が出るまで約30年の時間が経っている。それだけ筑波の中で清算することに時間のかかる出来事だったのだろう。このような歌ははっきりとアジテーションである。社会に爆弾を投げつけるための歌だ。世界を一瞬にして凍結させる言葉の力は、ときにものすごい身体感覚をもって迫ってくる。冷たい宣告を下す上官や、立ち惑う妻の声が聞こえてくるかのようだ。

  新宿の夜の雑踏に紛れ入りわれはわれなる素顔さらせり

  烈風に撓める冬野沈黙の影を濃くして暁に立つ杉

  身をせめぐ怒りのこゑを風に聞く風は心の中に激(たぎ)ちて

  季節風(モンスーン)吹き募りゆく屋上に苦きひとりの髪吹かれ立つ

  身にそわぬ現の闇に立ち惑ふ今一頭の悍馬たるべし
  つきつめて詩歌は武器となり得るや、かかる論にも倦みはてて飲む

  朴の葉は梢(うれ)さはやかに揺れゐたり、時は憂ひなくわれに流れよ
 短歌で職を逐われた筑波は、警備保障の事業に従事しながら歌壇と離れたところで歌を作り続けた。その孤独と歌に対する飽くなき愛情は、ある種のハードボイルド的な作中主体像となっている。「詩歌は武器となり得るや」という疑問を抱きつつも、答えを出すことは過去の自分を裁くことになる。ここにあるのは、過去の自分と対峙し続ける男の姿だろう。それと同時に、過酷な実体験を歌として昇華する必要に迫られていた若き時代から解放され、ある程度〈私〉との距離を保つことができるようになったあらわれなのかもしれない。