多田智満子は1930年生まれで、2003年に没している。慶應義塾大学英文科卒業。歌人というよりも詩人として有名であり、詩集「川のほとりに」で現代詩花椿賞、「川のある国」で読売文学賞などを受賞している。歌集は没後の2005年に出された「遊星の人」一冊のみであり、短歌を作ってはいたものの自らを歌人として意識したことは生涯なかったのではないかと思われる。
多田が深く影響を受けた歌人は葛原妙子と山中智恵子である。その影響は作風にもよく見てとれる。荘厳な雰囲気を湛えた、幻想的な作風である。
死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覚めし短夜
水死者は黒髪ひろげうつ伏せに夜の水底(みなぞこ)にまなこひらける
秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも
ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや
六連発ピストルのなか輪になりて六つの夢のあやふく眠る
かざす掌に風は透きたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな
みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや
外見(そとみ)には古びし硝子 内陣に五彩の光そそぐ薔薇窓
生と死、現実と幻、そういった対比構造が歌の中に貫かれている。多田が見ているものはつねに「境界」である。ゆめとうつつのあわいを見続け、己の人生のちっぽけさを見据える。「薔薇窓」は「境界」の象徴であろう。「境界」はつねに外=生の世界から見ればつまらないものでしかない。内側から肉薄して見なければその幻想的な光に触れることはできない。こうして見ると、多田は生者の側からよりもむしろ死者の側から「境界」にアプローチしているように思える。病身ということの影響があったのかもしれない。
学校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる
締りたる裸形にシャワー少年の肉ひとところ重くみのれる
水仙は水仙とよりそふて立つ天地(あめつち)にたつた二人の少年の如く
少年は白き足裏(あなうら)きらめかせ消ゆ紺青の波の底へと
地はヘラス波にはメロス遊泳の少年は古代の沖をめざせり
不思議と目立つモチーフが「少年」である。3首目は明らかに葛原妙子の「少年は少年とねむるうす青き水仙の葉のごとくならびて」という歌を意識している。たくましく躍動的な少年像は、生者の側に立つ存在の象徴なのだろう。死者の側に近づいていく多田にとってそれは眩しく、やがては遠ざかって消えてしまうものなのである。
人の子の降誕の夜もかくやありし厩の藁に眠る犬の仔
飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ
山頂より裾野めがけて駆けおるる瀧よ孤独なる長距離走者
永遠の石鹸一個きらめきて小暗き湯殿に坐す聖家族
はなびらの波くぐりゆくはなむぐり知らずや薔薇は底なしの淵
この悲傷は他界の光しぐれふる波止場にしばし夕陽ながるる
白き船へ返す人なき口笛を一吹き投げて足早に去る
死者の世界へ近づくほどに初めて見えてくる生のかがやき。そして生者の世界を少しずつ浸食してゆく死者の世界。その境界線ははっきり目に見えるものではないが、一度越えてしまったら戻ることのできない壁がある。悲傷を「他界の光」と表現するとき、その「他界」とは実は死者の世界ではなく生者の世界なのではないか。そう思えてしまうくらい、生に対する憧れのような執着を感じる。多田は死者の世界から「薔薇窓」を覗き、そこからではなければ見えない生の光のまばゆさを描き続けようとしていたのだろう。
鈴懸は何科ならむと植物の図鑑開けばスズカケノキ科
夏過ぎし大学街をあゆみゐて出会ひたる古書「ヘカーテと犬」
あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが脳(なづき)軽石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る
ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔
山深きアンモナイトは幾重にも渦まき過ぎし海の疑問符
みしみしと蟹喰ふ男巨いなる甲羅被りて地獄変相図
生死の狭間を見つめ続ける一方で、このような少し力の抜けた歌もある。ただごと的だったり、発見の歌だったりする、少し明るげな表情をした歌たちである。歌集の序盤にこういった歌が多いあたり、まだ健康体だった頃の歌なのかもしれない。それでもやはり虚実のあわいに立ちながら揺れているような気配があるが、実はこうした歌にこそ、多田の何気ない素顔、「生者」としてのリアリティが覗いているようにも思えるのである。