トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその56・坂原八津

 坂原八津は1958年生まれ。岡山大学薬学部卒業。1980年に「個性」に入会し、加藤克巳に師事。2004年「熾」(代表 沖ななも)創刊に参加。「太陽系の魚」「葉」「はて」の3冊の歌集を刊行している。坂原の作風は平明で破調も少ない口語短歌であるが、加藤克巳の流れを汲んでいるだけあってほかの口語短歌とは少し違う手触りがある。ふわふわしているようにも見えるが、ごつごつしているようにも感じられる。真っ白なイメージに包まれているかと思えば、漆黒の闇の匂いもする。どうにもとらえどころのない不思議な口語短歌なのだ。

  やわらかな記憶のなかの色をして入り口に咲くしろいたんぽぽ

  笑いあうこころと声と膝小僧よもぎ野原で傷を抱いて

  思い出は語らないまま桜からいくつのかどを過ぎたのだろう

  きみならばこの笛の音にたちどまる ずるいなこんなボールの投げ方

  ごめんねと言うことだけでまだきっと人は昨日に許されている

  見つかるよ言いたいことがあるはずだ雨の境をたどっていけば

  マンボウが泳いでいったうしろからひんやり寒い朝のあおいろ

  きみにパス まっすぐにすいこまれゆく言葉の行方をわたしは知ってる

 これらの歌には、ライトヴァースの口語短歌が持っている体温のぬくもりやあたたかさといったものがまるで感じられない。やわらかい口語で綴られているにもかかわらず、ひやりとした感触が消えない。そのような感触はひとえに、生と死というテーマが歌世界を貫いているからであろう。それだけ坂原には「いのち」の歌が多い。

  動物園この前のとおり生き物が並んでいるかたしかめている

  葉柳に幽霊が立つ生きているものがこわいと言ったはずだよ

  しのび足ほろびていくよヒトたちはひとごとだから冷たくなれる

  透かし見た湖の底樹々は立つ生の姿にとらわれたまま 
  振り返りにっこり笑い答えようたかが遺伝子ひつじはひつじ

  指先から飛び交う言葉 信号に変わってめぐる 人の訃報も

  立っている 枝垂れ桜の天蓋の下でほほえむいのちのように

  殺し合うヒトとウィルス殺し合う人間たちの無言の連鎖

  いのちとはいえないたまご朝毎にいのちのように割られて落ちる

 坂原が生と死という問題から投げかけるテーゼはいたってクールだ。生きるとは殺すことで、死ぬとは殺されること。そういった乾いたリアリストの視点がぶれない。薬学部出身ということで、職業上でも生物に触れる機会が多いのかもしれない。クローン羊をテーマにした歌などもあるが、人間が手触れることの許されない「いのちの領域」の存在を認めているのだろうか。坂原の歌の独特の冷たさは、倫理性を問いかけるものの冷厳さともいえそうだ。
 「葉」の栞文を寄せている沖ななもは、坂原の短歌に特徴的な点を「物」というものへの把握だと捉えている。

  石として転がることをやめて 石 なめらかに横たわるmuseum
 沖は〈あかときの雪の中にて 石 割 れ た〉(加藤克巳)を彷彿とさせるこの歌を引いて、置かれるところや見られる時間によって性質が変わってしまうのが「物」であり、その中には時間性が濃く内包されているのだと論じている。そしてその「物」の特性を、坂原は人間の中にも見ているのだと。これは面白い論考であり、坂原の中に近代的な相対主義とその超克という意識があらわれていることを示唆している。

  逆光にのっぺらぼうが現れてすれちがうとき人間になる

  月の端を溶かしてゆれる波間には鉱物色の背を持つ魚

  光線のゆらめきのなか浮かび出て消えるしかないお化けのみなさま

  上弦の地球 まぶたをまた閉じてもうひと区切り眠っていよう

  じゃんけんの勝負がついたじゅんばんに河童祭りの雨に溶けゆく

  落ちている蝉の数だけ声をあげ木のくらがりに童子は消える

  去っていく 居場所がまるであるように言葉も影もなにも残さず

  どこまでも嘘を続ける ほほえんできみの記憶に降りていくとき

  星型の星をいっぱい散りばめたうそばっかりの空はきれいだ

  まんまるいくらげが泳ぐ水槽の窓のこちらはそろそろ満員
 ときおりみられるSF・ファンタジー的、あるいはときに都市伝説的な奇想も非常に魅力的である。たしかに月から見れば地球にも上弦下弦が存在するだろう。生死をしっかりと見据えているからこそ見えてくる不思議な世界。そういった点に奇妙な魅力が生まれてくる。「影」と「嘘」はキーワードであろう。近代の中で生を見据えることは、逃げようのない自らの「影」を見据えることでもある。そしてときには美しい「嘘」を振りかざして生を肯定しなければならないときがある。きれいごとではすまされないこともあるのが「いのち」の世界だろう。坂原が紡ぎ出す一見幻想的にも思える奇想は、もしかしたらそちらこそが真実の世界なのかもしれない。