トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその50・熊谷龍子

 熊谷龍子は1943年生まれ。宮城学院女子大学日本文学科卒業。1967年「詩歌」に参加し前田透に師事。「詩歌」廃刊後は「青天」を経て「礁」に参加。宮城県気仙沼市在住の歌人である。小学校の国語教科書に「森は海の恋人」という植林活動を行う漁師の話が載っているが、そのタイトルの由来となったのは熊谷の歌である。また、平家物語の「敦盛」で有名な熊谷直実の末裔でもあるらしく、国語の教科書に縁のある人である。
 第1歌集「花の北限」は1974年の出版。前田透門下らしく、ライトヴァースのさきがけ的な表現の歌が見受けられる。

  夕焼けをみつめていたい少年のセーターのグリーン色褪せるまで

  煖炉の火消えゆくそのまま会話絶え距離のみがふたりを繋ぐ

  ふたり一緒の窓もちながらたまさかは孤(ひとり)の窓に帰りてゆかむ

  ひとりの窓が刻んだ日々はゆるやかにかえされてゆく あなたのうちへ

  君のしぐさひとつのこらずみていたい のに燃え尽きるマッチ棒

  雨の中を歩くのは練習なの海底への階少しずつおりてゆく為の日の

 定型を微妙に外している歌が多いことが印象的である。「いたい のに」と一字空けをするセンスなどは非常に少女的であり、また現代的でもある。現代詩からの摂取と思われる部分も多く、佐藤弓生などに通じるものがある。これらの歌の根本に据えられているのは孤独である。甘い口語を使用しながらも、どこか乾燥した空気が満ちているのはそのせいであろう。

  ひとが失神するときみるもの 紫陽花の藍とシクラメンの紅

  眩暈 ああ私宛の郵便物が私を捜している

  ひとふさのみかんのすじを辿りゆきライン河まで男は旅する

  遠景の輪をぬけてきし近景にかさなりてゆくわれの既視感

  ひとひらの雲うごかざる楢の木のむこうで母の夢絶たれいる

  広い縁を曲がりきったところから蟻とわれの生活圏異なる
 現代詩からの影響を感じさせるのは、こうしたシュールな発想の歌である。熊谷の発想の中には、小さなものと大きなものとが混沌となる世界が存在しているようだ。また距離や時間軸が乱れてゆくことも特徴である。どこか異国のような、はたまた別世界のような空気感を湛えている歌である。とりわけ目を引くのは2首目の「眩暈」の歌だろうか。とても大胆な破調で大げさに歌われているように見えるが、よく考えると当たり前のことを言っている。しかしそんな「当たり前のこと」すらも日常の中にじわりと浸食する異世界のような感触をもたせてくれるのが熊谷の詩的素養である。

  背景のことなる過去をもちながらいまあゆみいる朝の渚辺

  ある時はふるさとの川捨てている レモンティーゆっくりかきまわしながら

  暗い海に遙かな街の灯をさがす記憶のなかの語彙流れゆく

  暗闇はすなわち未来 村祭りをたったひとりでぬけだした夜の

  死者は上流にわれは下流に米をとぐ何を隔てしや空映す川

  回想の風景はいつも外されてわが眼の前は今年も樹海
 現在と過去、遠くと近く、大と小。そういった二点の対立軸を設定しながらあえてそれをぐちゃぐちゃにしていく。それが熊谷にとっての詩的手法である。その中でも特に重要なのは現在と過去の混沌であろうか。それは熊谷自身が持っている過去の思い出への執着によってなされているものかもしれない。一見相容れないように思える、遠い場所にある二つの存在。その間の距離を遙かに飛び越えてしまうことを詩は可能にしてくれるのである。