トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその49・清原日出夫

 清原日出夫は1936年生まれで、2004年没。北海道中標津町の農家に生まれ、立命館大学法学部を卒業。「塔」に入会し高安国世に師事した。大学在学中から安保闘争に関わっていた学生運動家であり、学生安保歌人として「東の岸上大作、西の清原日出夫」と呼ばれていたという。第1歌集「流氷の季」は1964年刊行。
 ライバルと目されていた岸上大作の歌が今もエバーグリーンな青春歌として愛唱されているのに対し、清原は少し忘れられた存在になり気味である。確かに清原の歌は無骨な社会詠が多く、岸上のような愛唱性に欠けるきらいはある。同時代人でないと理解できないような空気感もあるだろう。しかし現代のこの時代だからこそ清原は再評価されるべき歌人であると思う。

  〈不戦〉この一つのためにと明るきを北鮮帰還学生代表

  不意に優しく警官がビラを求め来ぬその白き手袋をはめし大き掌

  何処までもデモにつきまとうポリスカーなかに無電に話す口見ゆ

  性格の弱さ説得家と評価され一回生の教室われにまわさる

  投光器に石を投げよと叫ぶ声探り光は定まりて来る

  警棒に裂かれし傷は分ち持ちその傷に即きつきて問うべし

  抗議デモのわれらに従ける警官の一人濡れつつ優しき貌す

 安保闘争の歌である。なんともごつごつした手触りの歌であり、学生運動の中でもささやかな恋愛などの青春模様を描いた岸上とはやはり位相が異なる。注目すべきは警官もまた労働者なのだと見る視点である。清原は平和のために権力への抵抗を見せながら、最後まで権力者は悪であると言い切ることができなかった。彼らの裏側にある生活の匂いを見逃すことができなかった。ある種のリアリストだったのだ。このようなリアリストとしての側面は、極寒の根釧台地に生まれ育ったことと、開拓農家であった父との関係性に原因が求められる。

  日暮れぎわひととき風の衰えて雪にポストを掘る郵便夫

  保守党支持やめよとわれの言いきりし後を緘黙に父は薪挽く

  麦刈る日続きて少し理解する土地墾(ひら)きし父の共産党憎悪

  政治性のなきをかわれて父の持つ公職一つ道農業会議委員

  中庸を説きて誤字多き母の手紙むしろ励ましとしてデモに行く

 自分の手で土地を切り開いたからこそ革命思想を憎悪する父と、革命思想に没頭していく自分。その微妙な関係性は象徴としての世代対立そのものであった。清原の歌は音韻の響きよりも歌の意味を重視するために破調が多い。その破調がまさに厳しい北風を想起させる。体内に流れる開拓者の血が、どうしても単純に権力を憎ませようとしなかったのだろう。大学を卒業した清原はその後長野県庁に就職。堂々たる「権力者」の側である地方官吏となり、最終的には企業局長にまで出世。長野朝日放送天下りまでしている。これは「転向」なのかもしれないし、人生かけてのドラマを演出する文学的意思表示だったのかもしれない。あまりいい読み方ではないかもしれないが、苦悩する若き革命家の歌を清原のその後の人生と重ねて読むと人間社会の機微にしみじみとなってくる。
 また、清原は安保詠ばかりではなく、北国の風土を見事に写し取った美しい自然詠も多数残している。

  紫に凍てし茜を統べ終えてひとり光を放ちゆく月

  雪原に寒き林よ踏み入れば堅き芽はみな持つ落葉樹

  北指して白鳥群また飛び去りて雪下(ゆきした)に音なく生まれつぐもの

  麦藁の帽子に風を集むれば北国の風秋づくはやし

  それぞれは秀でて天を目指すとも寄り合うたしかに森なる世界

  舞い昇る氷の華は巌越えわれを越え断崖の凍み透る空

 生い立ちゆえに青春と学生運動を混じり合わせることがなかなかできなかった清原の歌において、むしろこうした自然詠の方がどことなく青春歌の香りを宿しているところが、なかなか皮肉である。