早川志織は1963年生まれ。東京農業大学農学部卒業。1983年「詩の雑誌 TILL」に参加。1985年に「短歌人」に入会し、高瀬一誌の薫陶を受けた。1992年、「藤色電波」で第38回角川短歌賞次席。1994年、第1歌集「種の起源」で第38回現代歌人協会賞を受賞した。
早川の歌の特徴は「植物的想像力」である。農学部出身で実際に植物に詳しいらしく、少しマイナーな植物名などもしばしば歌の中に登場する。しかしそういう固有名詞の使い方以上に、自分の身体に植物的なものを感じているように思える。他の生物の生命を奪い続けることで生きながらえる動物的な身体ではなく、誰も傷つけずにゆっくりと生命活動を続けていくような植物。そういう存在に身体を共感させながら、確かな動物の身体をもって生きている。そのような矛盾のはざまで揺れ動く心をテーマにしているように感じられる。
水中に溶ける光を絡めんとサフランの根がガラス器を満たす
薄青きセーターを脱ぐかたわらでペペロミアは胞子をこぼしていたり
欲しいものはこうして奪う 校庭の柵にからまる明きヒルガオ
異性らよ語りかけるな八月のクレオメが蕊をふるわせている
強きひとをうつくしく思う夏の部屋ドラセナが青き芽をふいている
シャンプーの香りに満ちる傘の中 つぼみとはもしやこのようなもの
目を閉じて髪洗われるひとときをミモザのように香りいるだけ
「ペペロミア」や「ドラセナ」などは聞きなれない植物の名前である。しかしこれらの歌で具体的な植物のイメージをつかんでおく必要は基本的にない。早川が植物と自分の身体を重ね合わせる動機となっているのが生殖行為であり、「胞子」や「青き芽」がそのメタファーとなっていることの方が重要だからである。動物だろうが植物だろうが逃れられない宿命としての生殖。たとえば相聞を甘やかに歌うときも、生殖へのクールな視点がどこか残されている。
冬の陽にライオン色のセーターを光らせながら恋人はくる
君が手をあてれば響くオルガンになりたい群青色の一日(ひとひ)を
シャワーを浴びる男のからだ透視すれば一匹の鯨ただようが見ゆ
あたらしき君のコートにたっぷりと色滲ませている夕茜
眠りいる男の背骨なぞりつつ海沿いの錆びた鉄路を想う
生殖競争に勝ち残る強さの象徴としての「ライオン色」。そして男性の身体のなかに潜む「一匹の鯨」や「錆びた鉄路」。身体を生殖の器として、また遺伝子の乗り物として捉える視線からは、べたべたしたエロスなどは生まれようがない。文学者は恋愛を崇高なものとみなすが、生物学的な視点では生殖に奉仕するものとして相対化されるのだ。
早川自身は自分の身体が生殖の器であることに喜びもなければ悲しみもないのだろう。しかし、ときおり歌からみられる「水」への執着は、生物がまだ生物たりえた前の時代の母なる海への憧憬を想起させる。井辻朱美にも同質の水への憧憬があるが、ファンタジー的なアプローチをとる井辻とは違い早川は現実に日常の中から母なる海へと帰っていこうとする。
雨の日は青い海月の心地してビニールの傘回しつつゆく
傾けて流す花瓶の水の中 ガーベラのからだすこし溶けたり
イソギンチャクの婚姻想い浜ちかく泡立つ波を見つめていたり
ミルクココアよりスプーンを引き上げる滴るものが国を生むように
耳を持つものは水にはすめないと水槽のガラスがわたしを映す
切り落とす百合の茎より水はあふれ何だろうこの甘い胸さわぎ
人間が人間でなかった太古の海に憧れを感じながら、もう戻れない自らの身体を確認する。マイナーな植物名を出すこと以外には全く難解さのない素直でやわらかい作風なのだが、その背景にある生命思想は非常に深く理知的なものである。
雨雲のうすき匂いを嗅ぐゆうべ 胎児はひそと尾を揺らしいる
わたくしの赤子はすみれの色をしてはじめてのあまきにおい発たしむ
紫陽花の球(たま)青き夜 人間はもっと人間を生めば良いのに
草の種子こぼれていたり「殖えながらわたしは少し遠くへ行く」と
吾でなき一人の吾の中にもつ入子細工のからだたのしき
アメンボの繊すぎる足 平気だよ友達ばかり気にしなくても
2004年の第2歌集「クルミの中」には出産と育児という新たなるテーマが付与されている。植物的想像力でもって生命と身体への疑問を問いかけてきた早川が、自らの身体で生命を生み出したことの不思議に真正面から向かい合っている姿がとても印象的である。