トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその41・谺佳久

 谺佳久は1949年生まれ。早稲田大学卒業。「まひる野」を経て1974年より「心の花」所属。1988年に歌集「疾走歌伝」を刊行している。
 「心の花」は『男歌』で有名な佐佐木幸綱が主宰をつとめている。その影響か「心の花」の男性歌人は男らしくハードボイルドな歌風が目立つ。そのなかでも谺は歌集のタイトル通りの「疾走感」という点で抜きんでている。

  横抱きに突っぱしる闇、奪い来しをんな妻(め)とせる古代羨(とも)しも

  盗賊とならば砂金(きん)など目もくれずまず黒髪をひきずり去らん

  首に手をまわしてわれら抱擁す絞殺という形にも似て

  話し足りなかった分として硬貨戻され電話ボックスを出る

  助手席の女(ひと)を抱き寄せ突っ走る死なばもろともの片手ハンドル

  降下する階の数字が点されて沈みにしずむエレベーターは  

  にんげんの雄はたてがみ持たざればザッパザッパと髪の毛洗う

 全速力で駆け抜けているようなスピード感のある詠みぶりである。読んでいると自分自身が高速の車に乗せられているような酩酊感を覚える。これらの歌に共通しているのが既成の倫理観を打ち破ることへの憧れである。奪う、盗む、殺す、そういったインモラルな行動に強く惹かれているのがわかる。しかし単なる暴力性ではない。恋人と二人だけの愛の世界を縛り付けるものをすべてぶち壊したいという青春期独特の破壊衝動であろう。また夜の都会を巧みに描いた都市詠にも目を引くものがある。

  父の眼を偸みてわれに逢いに来し汝れをブラウスの上より愛撫す

  星見んといざない歩む草原(くさはら)にがまんならねば君の服剥ぐ

  リクライニング・シートもろとも押し倒し君にかぶさりゆける夏雲

  ライト消す エンジンを切る葦原に愛の密室たれよ自動車

  消し忘れ目覚めし真夜のFMが瀑布のごとき音たてており

  弾丸のごとく尖りしルージュひき雄(お)ごころ君はまた撃ち抜くか

 その破壊衝動がとりわけよくあらわれているのがこれらのような性愛の歌であろう。特に「父の眼を偸みて〜」という一首目のインパクトはかなり大きい。これは単純に彼女が厳格な父のもとから抜け出してきたという歌ではない。「父」はもっと抽象的な意味合いを持つ。いわば恋愛に社会性を与えようとする「政治的なもの」の象徴なのだ。同時期に出た「新人類世代」の歌集、たとえば穂村弘の「シンジケート」や俵万智の「サラダ記念日」は、アプローチは違うものの恋愛に政治性が持ち込まれることを拒否し、消費主義的な自由経済を選び取ったという点で通じているものがある。しかし全共闘世代の谺は違う。恋愛を社会化しようとする政治性に対してはっきりと抵抗をしているのである。「シンジケート」や「サラダ記念日」のように政治性をほとんど無視するようなかたちはとらず、社会が持っている「父性」の強さを認めたうえであえて抵抗しようとしている。暴力性への傾倒も、「父」というある種の暴力装置から自由になれない自分をどこか自覚しているからかもしれない。
 「疾走歌伝」の後半には父への挽歌が並んでおり、谺の持つ「父性」への関心が読み取れる。

  お父さん! おとうさんてば……もう何も言わぬくちびる綿で湿すも

  俺を一生親不孝者とせぬためにいま一度目をあけてくれ目を

  ごうごうと唸りをあげる炉の内に炎えてゆく融けてゆく無くなってゆく

  三月しか乗らざりし遺品のスクーターも端た金にて売りわたしたり

  母の名にあらざる女(ひと)のラブレター トランクの底に見し少年期

 スピード感のあるかっこいい都市詠を描く人間と同一人物とは思えないほど、亡き父に対し弱々しい思慕を寄せている。谺にとっての「父」とはつねに力ある者であり、挑戦していくものなのだ。その力でもって自分を押さえつけようとする高度に政治的な存在としての「父」。たとえば、「母の名にあらざる女(ひと)のラブレター」を見つけても誰にも伝えることができなかったような、声のいらない権力。そしてそれが消滅したときに初めて自己という存在の弱さ小ささを思い知らされるのである。全ては父性に庇護されていたからこそできる抵抗だったのだ。このような「亡き父と息子の物語」はそのまま戦後日本の姿にも当てはめることができるのかもしれない。「父性」とはきわめて近代的なモチーフなのだ。谺が描く父への挽歌は、そのまま近代日本への挽歌でもあるように思えるのである。