トナカイ語研究日誌

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穂村弘百首鑑賞・18

  アトミック・ボムの爆心地点にてはだかで石鹸剥いている夜

 自選歌集「ラインマーカーズ」から。この歌に関しては、穂村弘本人の詳しい自註がすでになされている。もともとNHK短歌スペシャルの歌会で広島に行ったときに作られた吟行詠である。原爆ドームを見て作ったわけだが、「日本人はあれを見てアトミック・ボムとはいえないのではないか」と批判されたという。そして穂村自身が「私の原爆に対する認識やスタンスが、外国人観光客と大差ないものだったということに尽きる。」と自省しているのである。それだけ自己批判していながら、穂村はこの歌を自選に入れている。どういう理由なのか。
 おそらくは、穂村がこだわり続けている「修辞の武装解除」を語るうえで「はだか」の自分はどんな姿をしているのかということがこの歌に象徴されていると考えているのではないか。修辞をすべて削ぎ落した〈私〉の姿を考えると、自己中心的で他人の気持ちに鈍感なひとりの男になってしまうのではないか。そういう不安がこの歌へつながっているのだと思う。「石鹸剥いている」というのは石鹸の包み紙を剥がしているという意味だろう。石鹸は自分を洗い清めて生まれ変わらせてくれるはずのものだが、その包み紙がなかなか剥がれない。そのことにたまらなく焦っているのだ。原爆の悲劇を「アトミック・ボム」としか表現できない。すなわち同じ日本人のことであっても過去の人間の気持ちには想像を働かせることができない。そのことへの深い悲しみと焦りが、逆に現代人の「はだか」の姿を照射しているのかもしれない。

  素はだかで靴散乱の玄関をあけて百済の太陽に遭う

 同じエッセイにて触れられている歌である。この歌も「百済でもインカでも何でも入れ替えがきいてしまう」という批判を認めており、「私にとって百済もインカも同じようなものでしかなかった」と述懐している。この歌でもやはり〈私〉は「素はだか」である。修辞を削ぎ落された〈私〉は、大昔にあったというどこだかわからないような遠い国の太陽に照らされる。それは、この世界に〈私〉が想像もつかないような「他者」が存在していることを冷徹に伝えかけてくるものなのだろう。