トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその20・浜田康敬

 浜田康敬は1938年生まれ。湘南高校通信制卒業。1961年に「成人通知」で第7回角川短歌賞、1974年に歌集「望郷篇」で第1回現代歌人集会賞を受賞した。短歌結社に属さない無所属歌人であり、宮崎県に在住しているため中央歌壇との交わりも多くはない。孤高といえる歌人である。
 教員を本業としている歌人・大辻隆弘の歌論集「時の基底」に、国語の授業で現代の青春短歌をとりあげると多くの生徒が目を輝かすが、中にはその青春性に嘘臭さを感じて拒否するタイプの生徒もいるというくだりがある。浜田のデビュー作「成人通知」はまさに彼らのようなタイプのためにある一連といえるかもしれない。すべての若者がまばゆい青春を謳歌しているわけではない。浜田の歌は重く鬱屈した、アンチ・青春歌なのである。

  残業は日々続きいてポケットに少女の名前の活字秘めつつ

  文選に黒く汚れし我の手で我に縁なき愛語を拾う

  活字拾う仕事にもすでにわが慣れて「恋」という字の置場所も知る

  あお向けに寝ながら闇を愛しおり動けば淋し自慰終えし後

  豚の交尾終わるまで見て戻り来し我に成人通知来ている
 浜田は家族に恵まれずさまざまな地を転々として育った後に、印刷工として働きながら通信制に学んだ。第1歌集の題「望郷篇」は、故郷をもたざる人間の皮肉である。そして、角川短歌賞の賞金で旅行した際に気に入った宮崎に土着した。失われた「望郷」の果てに自ら故郷を創出したのである。

 「文選」とは活版印刷の工程のひとつで文字を拾う作業のこと。華やかな恋愛とは無縁な貧しい男が「恋」だの「愛」だのという言葉を拾っていると自嘲しているのだ。しかし、愛語を「所詮は山ほどある言葉の一つ」と捉える視点には、単なる自虐ばかりではなく「言葉」の自律性を信じる詩人としての矜持もみられる。「豚の交尾」の歌から伝わるのは、愛と無縁な青年にとって「大人になること」は生殖の義務を突きつけられることにすぎないという醒めた諦念である。結局は豚と同じことをするために生まれてきたのだ。輝かしい青春なんて自分には存在しない、という思いが歌の底に流れている。しかし暴力の世界に入っていくわけでもない。ただひたすらに内省的な世界に生きるのである。

  元旦に母が犯されたる証し義姉は十月十日の生まれ

  メガネの枠ばかり並べて終日を目の悪き客を待つ眼鏡店

  日向にて語らう老婆二人にて手相見せ合うまだ生きむとす

  方形のガラスを運ぶ男いて透明をかくも重くかつげり

  刑終え来て店をはじめし青年の花屋が今日も繁盛しおり
 浜田の鬱屈した思いは青春期を終えてもやむことはなかったようである。これらの歌は逆転の発想が効いている技巧的な歌だが、その発想の裏側には悪意がべったりと貼りついている。手相を見せ合う老婆や刑期を終えて花屋をはじめた青年といった美しいモチーフすらも容赦なくずたずたに切り刻んでゆく。こういった社会に対するとげとげしい態度が浜田の持ち味である。

  わが巡りまだ明るくて遠くより昏れてくる闇は円きかたちに

  夕焼けの赤に吸われて透明の羽根より溶けてゆけ赤とんぼ

  とびぬけてやさしき顔の少年がかくれあそびの鬼となりたる

  しあわせは両手に受けるならいにて子が大の字になって寝る癖

  星空を見ている我のかたわらに吾子来て彼女の如く寄り添う

 しかし愛に飢えた卑屈な青年も真の意味で大人となり、やがて夫となり父となったのである。赤とんぼの歌のような叙情的な歌をも作るようになったのだ。かくれあそびの鬼となった「とびぬけてやさしき顔の少年」は浜田の自己像であろう。どこか大人になりきれない心を残しつつも平凡な幸福を手に入れていったひとりの男の物語が、浜田の歌から透けて見える。そこから感じ取れるものは、人生の哀歓と言ってもいいかもしれない。