トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその15・石川美南

 石川美南は1980年生まれ。東京外国語大学卒業。2002年「祖父の帰宅/父の休暇」で第1回北溟短歌賞次席。16歳の時に作歌をはじめたという早熟の歌人である。早稲田大学の短歌実作ゼミで水原紫苑に学んだことがあるものの、これまで「ラエティティア」「punch-man」「pool」と一貫して結社によらず同人誌ベースで活動をしてきている。
 穂村弘はかつて同世代の歌人をクラスに例えるなら学級委員は米川千嘉子だろうと書いたことがあるが、それに倣えば我々の世代の学級委員は石川美南だろうと思う。ただしやんちゃな生徒を叱りつけるタイプというよりは、いつの間にか輪の中心になってみんなを引き付けているタイプの学級委員である。現状もっとも出世の早い若手歌人のひとりであるが、その立ち位置も作風も決して優等生ではない。

  半分は砂に埋もれてゐる部屋よ教授の指の化石を拾ふ
  窓がみなこんなに暗くなつたのにエミールはまだ庭にゐるのよ

  茸(きのこ)たちの月見の宴に招かれぬほのかに毒を持つものとして

  街中の鍋から蓋がなくなりて飛び出してくる蛇・うさぎ・象
 空から降る砂に埋もれていく大学キャンパスやきのこたちのお祭り、鍋の蓋連続盗難事件といった有り得ない世界設定のうえで連作が作られたりするが、前衛短歌的な幻視にみられる絢爛な美学はまるでない。2首目のどことなく不気味なメルヘン調にも表れているが、いわば日常の裂け目に指を突っ込んで広げるような歌い方である。つまりは「世界の異化」である。水原紫苑は「文語でも口語でもない文体」と評したが、おそらく石川の中には「文語の世界」と「口語の世界」が並列で存在し「文語の世界」はいつでもどこかがねじれているのだ。そのねじれを形作ったのはおそらく深い文学的教養であり、言葉に対する偏愛的なフェティシズムだろう。

  桜桃の限りを尽くす恋人と連れ立ちて見に行く天の河
  おまへんちの電話いつでもばあちやんが出るな蛙の声みたいだな

  近眼のエリコ(あだ名はマヨネーズ)今日ものそのそ付いてくるなり

  カーテンのレースは冷えて弟がはぷすぐるぶ、とくしやみする秋

  乱闘が始まるまでの二時間に七百ページ費やす話

  コーヒーを初めて見たるばばさまが毒ぢや毒ぢやと暴るる話
 「桜桃の限り」「はぷすぐるぶ」のような言葉遊びにもみられるように、いずれも「コトバ派歌人」としての感性が爆発している歌である。しかしコトバの世界に沈殿するのではなく「口語」という生身の肉体とも交感しながら詩が形成されていくことでなおさらねじれは際立つのである。終わりの2首は「話」で終わる奇妙な歌ばかりを並べた「物語集」という作品(一首ずつカード形式になっている)からであるが、決して定型を狭苦しいと感じていない自在さが表れていると同時に、奇妙さゆえの「笑い」に石川短歌の本質があるのだろうと思わせてくれる。

  友だちのままで腐れてゆく縁を良しとしてゐるグリコのネオン 
  手を振つてもらへたんだね良かつたねもう仰向けに眠れるんだね

 斉藤斎藤が発行した歌誌「風通し」に寄稿された「大熊猫夜間歩行」は、詞書きにてジャイアントパンダの脱走という架空の事件が、短歌では作中主体の恋愛が描かれ、時折オーバーラップしながら相互に絡み合って物語を織りなす構成となっている。二つの出来事が同一の世界で起こっているのかはわからない(一応詞書きにも「私」は登場するが)。しかし常に二つの世界を同時に眺めながら生きている歌人にとって、このような物語構成は決して挑発的なものではないのかもしれない。むしろ、これまで自分の見ている世界を徹底的に異化してきた石川が、ついに異化されているのが世界なのか自分なのかわからない混沌とした世界観を作り上げてしまった所に「大熊猫夜間歩行」の妙味があるのかもしれない。