トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその14・渡辺松男

 渡辺松男は1955年生まれ。東京大学文学部卒業。「かりん」所属。1995年に「睫毛はうごく」で第6回歌壇賞を受賞。1998年に第1歌集「寒気氾濫」で第42回現代歌人協会賞。その他、第8回ながらみ現代短歌賞、第8回寺山修司短歌賞を受賞している。
 渡辺の歌はいわゆる文語と口語が混淆した文体である。その中でも口語体の歌は何やら癒し系というか、やさしい文体で人生の本質をずばっと突いてみせるような鋭さがある。

  ああ母はとつぜん消えてゆきたれど一生なんて青虫にもある

  ごうまんなにんげんどもは小さくなれ谷川岳をゆくごはんつぶ
  わたしって団栗たいしたものだから落ちるわよそれみんなと一緒
  わたしっていないんだよね鳥の飛ぶ大きな空地があるだけだよ ね

 「一生なんて青虫にもある」と剛速球で語りかけてくるが、文体はいたってやわらかい(なぜか女性口調だったりする)。ある種人生訓めいた面もあるが、説教臭さはまるでない。歌の底を流れているのは「人間なんてちっぽけな存在だよ」という思いである。「ちっぽけである」ということは決して人間を否定するマイナス要因ではなく、「俺たちゃちっぽけな生きもんなんだから、力抜いて生きようやあ」というメッセージへと転化されているのである。
 「人間なんてちっぽけなもの」という思想の裏側には自然への畏敬がある。渡辺は「木の歌人」といえるほど木をよく詠み、その多くは擬人化されている。渡辺にとっての木とは大いなる自然とちっぽけな人間とをつなぐ端子のようなものである。木を通じて自然へと接する。ある種の自然崇拝ともいえる世界観が形作られている。群馬県在住の地方歌人であることもそのような思想の礎なのかもしれない。

  俺はいわゆる木ではないぞと言い張れる一本があり森がざわめく

  立ったまま枯れているなんてわりあいにぼんやりとしているんだな木は

  ゆうぐれはいっぽんの樹へ向くこころ樹というは霧のなかなる耳

  君もぼくも名のなきことの嬉しさに朝だよと木を叩いてまわる
 渡辺が木に向けている思いは、偉大ゆえにときに恐ろしい自然の中において数少ない、自分の手で触れられるもっとも身近な神のような存在という感覚なのかもしれない。だからこそ「わりあいぼんやりとしている」木に共感してみたりするのである。「ちっぽけな人間」と「神のように巨大な自然」のはざまの空間を生きている存在として植物たちを捉えることは、ユニークながらも真理を突いているようでどきっとさせられる視点である。
 また、渡辺はすぐれた相聞歌の詠み手でもある。

  おんなのこは鮠(はや)おとこのこは鯰(なまず)鯰のゆめはどきどきと鮠

  ちょっと恋をおもっただけでもあっ痛い 点は二線のぶつかるところ

  ボールペンよ飛んでゆけわが恋びとへ風ばかり吹く白いベランダ

  あふれやまぬ君のなみだを舐めている樹を洗う青い雨のふるころ

  こころがそばにいるなんて嘘のようなれど白鳥座から林檎の匂い

 読んでわかるとおり、いずれも愛らしい歌である。とても中年のおじさんが作ったものとは思えない。「どきどき」という言葉をうまく持ち込んだ歌は短歌史上これが初めてかもしれない。4首目は渡辺お得意の木が出てくる歌であるが、ちっぽけな人間が持つ「なみだ」と大いなる自然が生み出す「雨」とを同じ水として対比させ、その中間をつなぐものとして雨に洗われる「樹」が登場している。相聞歌にもまた人間/自然の対立軸とその中間端子としての木という構図が成り立っているのである。