トナカイ語研究日誌

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穂村弘百首鑑賞・9

  海のひかりに船が溶けると喜んでよだれまみれのグレイハウンド

 第2歌集「ドライドライアイス」から。穂村弘の歌にはよく犬が登場するが、そのなかには具体的な犬種名が付されているものがある。猫や鳥が詠まれるときはこういうことはない。不思議な特徴である。

  プードルの首根っ子押さえてトリミング種痘の痕なき肩よ八月

  秋の始まりは動物病院の看護婦(ナース)とグレートデンのくちづけ

 「短歌の友人」には同じ動物が出てくる歌でも、その歌によって「現実モード」と「アニメモード」とで自然と分別して読まれるということが書かれている。要するに、その動物が現実に存在するものかそれともファンタジーな存在なのかは読者が無意識のうちに判断できているということである。それに倣えば穂村の歌に出てくる犬はどうなのか。具体的に犬種名まで描写するのは、「現実モード」のリアリティを補強するものなのか、「アニメモード」の過剰なディテールなのか。
 掲出歌に登場するグレイハウンドは「海のひかりに船が溶ける」ことに喜んでいると描写されるが、実際に犬の気持ちは人間にはわからないだろう。「海のひかりに船が溶ける」というのは船が朝日ないし夕日を強く浴びている状態なのだろうが、作中主体自身はそれにより船が消えてなくなるわけではないことを知っている。もしかしたら、海のひかりにまみれて世界そのものが溶けてなくなってしまえばいいとさえ願っているのかもしれない。しかしそれはあまりに非現実的な空想である。だから犬の眼を借りて、海のひかりに船が溶ける様を想像するのだろう。
 とするとこれはつまり、「アニメモード」への憧憬を抱き続ける「現実モード」の歌なのかもしれない。「グレイハウンド」という具体的な犬種名の提示は、「海のひかりに船が溶ける」空想ワールドを「よだれ」とともに容赦なく破壊し、作中主体をどうしようもない現実に引き戻す。そういう効果を狙ったものという見方もできるのである。