トナカイ語研究日誌

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結句六音のうた

 短歌において「字余り」は大幅な破調でもない限りほとんど意識されることはない。言葉がどうしても字余りを要請する部分があるし、作者の方も半ば無自覚的に字余りを遣っているケースが多い(例外は初句七音くらいだろうか)。しかし「字足らず」は違う。韻律を支配する修辞の一形態として、明確に意識されて用いられる。それだけに遣い方は難しい。七五調のリズムに慣れてしまっている日本人にとって、たとえ普段から短歌を読む習慣がなかったとしても字足らずは何となく「落ち着かないもの」として捉えられるのである。
 修辞としての「字足らず」で比較的よく用いられるのが結句(最後の七音の部分)を一字減らして六音にする例である。このレトリックの特徴は「言い切り感」。あらゆる余韻を遮断して、ばしっと言い切ってしまう。そのあとには湿った抒情は何も残らない。歌の余韻を支配しているのが三十一音目のたった一字であるというのが日本語の不思議さである。

  踏み出(いだ)す夢の内外(うちそと)きさらぎの花の西行と刺しちがへむ  塚本邦雄

  急ブレーキ音は夜空にのみこまれ世界は無意味のおまけが愛  斉藤斎藤
  何してもむだな気がして机には五千円札とバナナの皮  永井祐
  純粋悪夢再生機鳴るたそがれのあたしあなたの唾がきらい  飯田有子

 これらは、そんな結句六音の歌である。最後がばしっと言い切られていて、甘ったるい余韻を一切残していない歌ばかりである。短歌の韻律感覚にのっとって読むと、結句でびしっと決めた後に一拍のブレイクが入るような感じがする。そのブレイクが余韻の遮断となっているのだろう。
 この余韻の遮断は歌の内容が要請するところがやはり大きいが、レトリカルな効果としては二種類ある。一つは「一点集中効果」。一首目の塚本はある種講談調というか、刺し違える瞬間をクライマックスとしてその一点にすべてを集中させようとしている歌である。二首目の斉藤は交通事故の歌であり、急ブレーキの音が高らかに響くなかすべてが破壊される一瞬を結句六音に込めている。クライマックスとなる一瞬のシーンでブレイクという心理的空白をつくり、ドラマチックな効果を与えることが目的となっている。
 一方、三首目の永井、四首目の飯田の歌は「突き放し効果」を狙っている。「何してもむだ」「純粋悪夢再生機」といった強烈な負のイメージをもつ初句から、もう何もかもが嫌になったと言わんばかりに結句を六音で切り落とす。結句を「吐き捨てる」といった感覚に近い。余韻によって生まれる抒情を積極的に嫌悪しているといった雰囲気である。
 僕自身こういう効果を意識しながら結句六音の歌をつくってみたりするけれど、明確な修辞意識がなければできない技法である。結句六音を使いこなせる歌人は、相当の実力派の証なのだ。